エネルギー不足で…
まあ色々と野暮用が入ったりしまして、ブログ更新が遅くなってスミマセン。特にこの4月、5月というのは受験のエネルギーが完全に抜けてしまう時期で、同時に、何をやるにも「明日でいいか」などと消極的に考えてしまうのです。
実際のところ、生徒さんたちもゴールデンウイークやら新チーム部活での初試合・初大会などがあるので、勉学にもあまり気が入りません。なのに中間テストがあるわけで、下手をすると、対策があまりできないまま受けてしまった!という人も多いのかもしれませんね。もちろんそんなことではいけないのですが。
ちなみに天下のNHK様では「ゴールデンウイーク」という言葉を使わずに「大型連休」と呼称しているそうな。私が学生のころは今のように連続ではなかったので「飛び石連休」と言ったりしてましたが、確かに、かなり以前から「大型連休」としていました。なんでも30年ぐらい前に「ゴールデンウイーク」と放送中に使うと「天下のNHKが横文字を使うとは何ごとか!」とお叱りを受けたからだそうです。今からすると隔世の感がします。
しかし世の中は動く
閑話休題。
やっぱりな、というニュースが来ましたよ。
これです。
まずはご一読ください。
中学で既習として扱われる「小学校700語問題」、誰が教える?
英語嫌いが増えて成績が二極化 小中の英語教育の連携問題に具体的な解決策なし
「小学校での英語教育が始まり、大きく変わったのは中1の最初の授業です。『Do you like English?』と聞くと、『No!!』という大きな声が上がるようになりました。小学校で英語嫌いになって、中学に上がってきているのです」
には笑ってしまいました。ちゃんとコミュニケーションが英語でとれているではないか?と。
冗談はさておき、こーなることは前からこのブログ内でも再三再四警告してきたことです。2年前の記事ですけど、どうぞご確認のほどを。
江戸時代の「天保の改革」を思い出す
まあほとんど的中しているだけに、残念でなりません。
私なんかは変な話をここで思い出すのです。江戸時代に「天保の改革」というのがありました。中学生の社会・歴史分野にも「江戸幕府の三大改革」とかで、必出の項目ですね。水野忠邦という老中様が「物価を下げろ」と経済界に命令をしたので、江戸の商人たちは「は、ははー、畏まりました」と言われるがままに物価を下げたんです。で、物価は確かに下がりましたが、豆腐などは重さや形が半分に、酒も濃度が半分になったそうです。
それはそうでしょう。いわゆる「一丁の豆腐」「一合の酒」を作る原材料費が急に半分になったりはしません。もちろん人件費や設備費もです。利に聡い商人たちが値段を下げるにはこうするしかないのです。
人の許容量は急には変化がない
そして人間が満足できる≒健康を保ち、エネルギーを発揮できるために摂取する、米やら副食物が急に増えるわけでも、減るわけでもありません。人の胃袋の大きさも、恐らくこの500年ぐらいは変化がないはずです。結局のところ、満足できる豆腐の量を確保するためには、天保の改革の時代には「二丁の豆腐」を買うしか方法がないわけで、支出はむしろ増えてしまい、増々庶民は貧乏一直線になるのです。これでは時の政権が見放されても仕方がないです。文字通り「民を飢えさせる王に、王の資格なし」ですね。
私は何を言いたいのか? それは「いくらデジタルデバイスが普及した現代でも、中学生や小学生の暗記力や理解力が急に伸びるわけはないし、地球上にいる限り、勉強に振り分けるべき時間が増えるわけではない」という事実から目を逸らしているから、こーいう事態になるのだ、ということです。
「上に政策あれば下に対策あり」は中華帝国の諺ですが
改訂を受けた教科書の出版・使用から3年が経ちました。最初は学校の先生たちも何とかしようと、努力されていたみたいです。でも恐らく諦めたのでしょう。普通のレベルの学校では、教科書本文だけはやりますが、本文の後にあるい「発展的リーディング」の内容にはあまり踏み込まない、踏み込んでも、さらっと内容に触れるぐらいのテスト内容に変えつつあります。そして出題形式やそのレベルなどは、以前の難易度に戻りつつあります。そうしないと生徒の「モラール=士気」が保てないからです。
これは賢明な方策と私なんかは考えてしまうのです。理想を追うのは良いことです。しかし夢想を追いかけてはなりません。あくまで現実をどう処理するかが大切なのです。今回の教科書を作った人たちは現実を知らなかったのか、知っていたけど無視したのか。
しかし上が指揮することに、下が従わないのはいかがなものでしょうか? これって組織の命令系統崩壊を意味するのでは?ましてや教育に関することですから、ちょっと大袈裟ですけど、国家基礎の崩壊になるのでは?と危惧するのです。
この記事も有用です。ぜひお読みください。
「東大寺学園」元教諭が塾を開いて痛感したこと、衰弱する公教育と細る家庭教育
中々「改革」は「改良」にはならないな~と感じるのです。
ではまた。