この歌は70才の時に作られた

音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ

[現代和訳]
うわさに高い高師の浜の、寄せてはかえす波で、 袖を濡らさないようにします(浮気がちなあなたの秋波を本気と取らないようします) 。

[作者生没年・出典]
生没年不明 金葉集 巻八 恋下 501

[人物紹介と歴史的背景]
本名も不明。「後朱雀天皇の皇女 祐子内親王に仕えた紀伊守の奥様」の意味でこう呼ばれている。

この歌は単独では理解ができない。実は「艶書合(えんしょあわせ)」という歌合の席で、男女の歌人が、疑似恋愛の歌を作りあって出来を競う、という場でできたものだから、最初の歌も紹介する必要がある。最初の歌は「人知れぬ 思ひあり その浦風に波の寄るこそ いまはほしけれ」=人知れずあなたのことを思っている。荒磯の浦風で波が寄るように、夜にあなたに想いを打ち明けたい と、定家の祖父 藤原俊忠が詠んだ。

歌の相手は30才で定家の祖父・藤原俊忠

そこで、波の打ち寄せる場所を「高師の浜」に、「波」を「あだ波=むだな秋波」に変えて、返したわけだが、作者の紀伊さんは、研究によるとこの歌を詠んだとき70才だったとされている。対する定家の祖父は30才前だった。なんだか、すごい組み合わせだ。歌に年齢は関係ないが、疑似とはいえ恋愛の歌を作るのには、かなりハードな状況ではある。

祐子内親王(ゆうしないしんのう)とは誰だ?

でも「紀伊夫人」より私は、「祐子内親王」という人がどういう人なのか、気になる。実はこの後で紹介する89番の式子内親王以外は、「天皇の奥さんになった人のお世話係り」の名前の女性歌人が登場する。例えば80番の「待賢門院堀川」、88番「皇嘉門院別当」、90番「殷富門院大輔」などだが、「~院」ご本人は、どなたも内乱や戦乱などに巻き込まれて、夫や子を失ったり、それが原因で出家したりなどと、波乱の人生を送る人たちばかりだ。

話は戻って「祐子内親王」という人は歌のサロンを開いたりして、文化を高める働きをした人だ。この「紀伊夫人」のお母さんも結構有名な歌人で、お母さんの代から「祐子内親王」に仕えていた。ところで、文化を高める行動をする人は他にいっぱいいる。なぜわざわざ「祐子内親王」なのか、と系図を調べると、曾祖母が、一条天皇の子最初の中宮 定子だった。この人は「枕草子」であまりにも有名だ。もしかすると「歴史上有名な女性10人」の中に入るかもしれないし、「100人」ならその悲劇性のゆえに、確実だ。

中宮 定子の影が見える

定子は一条天皇の息子と娘を一人ずつ生んで亡くなった。その息子の子供が、藤原頼通の養女になって、後朱雀天皇の娘を二人生んでいる。そのうちの一人が「祐子内親王」だった。藤原頼通と言えば、道長の息子で、あの「平等院鳳凰堂」を作らせた人で、有名。

定子から「ひきはがす」ように、一条天皇には道長の娘をくっつけて、後代々の天皇を輩出した藤原氏主流も、さすがに後ろめたかったか、定子の子孫を保護していたのは、コナン君ではないが「あれれぇ~?」と思ってしまう。あるいは中々皇子が生まれないから、やむにやまれぬ措置だったかもしれない。

清少納言を取り上げたので本来ならば…

62番で清少納言を取り上げたのならば、元 中宮 定子をあげないと「片手落ち」でバランスが取れない。しかし、ご本人の歌が発見できなかったか、発見できても適切なものがなかったか、それとも周囲の事情に遠慮したのかわからないが、定家は「曾おばあ様の代理ということでご出席を…」と彼女の名前を取り上げ、さらにカモフラージュで「~様のお手伝い、知り合い、お仲間」を組み入れたのではないか、つまり「名義借り」をしたのではないかと、結論付けるのはやりすぎか?

定子の死は、西暦ならば、たぶん1001年ぐらい。百人一首成立が1240年とすると、およそ240年前のことではある。でも宮中の人間関係は恐ろしく狭いから、カンの良い人なら、名前だけでピンと来たはずだからだ。

残念ながら、記録の上では、「祐子内親王」で、定子の血筋は途絶えている(庶子がいるかもしれないが、あくまで記録上では、のこと)。ここまで調べていくと、どうも定家卿は「滅びていくものを集め彼らへの挽歌」を、作っているようにしか思えない。