風流を極めたオタク 能因法師(のういんほうし)

嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

[現代和訳]
嵐が散らした三室山の紅葉が、龍田川 に一面に散っているが、まるで錦の織物のように美しい。

[作者生没年・出典]
生年988年 没年不明 後拾遺集 巻五 秋下 366 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
メジャーな四氏「源平藤橘」のうちの、橘氏の出身。いわゆる「数奇者」の一人で、いかにも長旅をしてきたように見せかけるため、庭で密かに日焼けをしてから歌会のメンバーの前に現れて、

都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白川の関

と詠んだ歌が有名な人。でも実際には、何度も東北地方に出かけているので、この話は能因の「数奇者」ぶりを強調するために創作したものだろう。

というのは、彼は当時の宮廷人とは一線を画していて、今の高槻市に住み、朝廷の人間関係からは独立し、別の地で牧場の経営と馬関係の仕事をして、良馬の産地である東北に縁があったからだ。

謎の人物 良遷法師(りょうぜんほうし)

さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮

[現代和訳]
寂しくてたまらず、家を出てあたりを眺めてみたが、秋の夕暮れは、やはりどこでも寂しいものだ。

[作者生没年・出典]
生没年不明 後拾遺集 巻四 秋上 333

[人物紹介と歴史的背景]
この歌は平安時代後期の作なので、後で紹介予定の「三夕の歌」の先駆けになった歌、とも言われている。

しかし肝心のご本人については、色々な研究者が彼の生い立ちを調べたが、比叡山関係の僧侶だった、ぐらいしかわからない、まさに不明の人物。仕方がないので別の人物を紹介する。

室町時代の連歌師 飯尾宗祇が絶賛している

この歌を絶賛しているのは、応仁の乱の頃の連歌師 飯尾宗祇(いいお そうぎ)だ。彼の批評によると「歌の意味はほぼ明らかで、外出先でも寂しさを感じるのは、自分の心そのものが寂しいからである。これこそ世捨て人の形だ」という。

宗祇は、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに「漂泊の人」の代表だ。勅撰和歌集に準じる「新撰筑波集(しんせんつくばしゅう)」という歌集を編纂し、定家が編集した「新古今和歌集」以来の、中世の美意識と連歌を融合する仕事をした。宗祇は97番の藤原定家の箇所でも出てくるし、彼自身も「百人一首」の解説本を出しているので、知っておこう。

また余談だが、歴史的、特に戦国時代で有名な連歌師は、里村 紹巴(さとむら じょうは1525年~1602年)だ。織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・細川幽斎・島津義久など、そうそうたる全国の武将たちと交流を持った。信長の上洛の時には、京都でのお祝いに駆けつけ、「日本が手に入りましたね」の意味で、二本の扇子を献上した。

1582年に明智光秀が行った愛宕山での連歌会にも参加し、光秀の発句「時は今」を聞いて、彼に謀反の意志があることを知った、という伝説がある。また本能寺の変後に、細川幽斎主催の信長追悼式にも出席している。当時風流人は政治の世界にも生きていたのだ。

大納言経信 (だいなごん つねのぶ)

夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く

[現代和訳]
夕方になると、家の前にある田の稲葉を音をたてて、 葦葺きのそまつな小屋に秋風が吹き訪れることよ。、ああもの悲しいなあ。

[作者生没年・出典]
生年 1016年 没年1097年 金葉集 巻三 秋 183 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
本名 源経信。和歌・管弦・作文(さくもん)・琵琶や有職故実に通じた人で、勅撰和歌集には87首入選している達人。「まろや」とは田舎風の家のこと。

公任に比肩されるほどの才能の持ち主

漢詩に長けた人物で、音楽も上手だった。だか藤原公任に比肩されるほどの才能の持ち主とも言える。さらに自分の心情を歌うよりは、自然の美しさなどの情景を題材にすることが多かった人で、彼から「叙景歌」の新ジャンルが発達したとも言われている。