参議 篁とは小野篁のこと

わたの原 八十島かけて 漕き出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね

[現代和訳]
はるか大海原を多くの島々目指して漕ぎ出して行ったと、都にいる人に告げてくれないか、そこの釣舟の漁夫よ。

[作者生没年・出典]
本名は小野篁(おののたかむら)。生年は802年で没年は852年。

[人物紹介と歴史的背景]
文才も剣の腕も優れていて、話題に事欠かない人だ。009番で紹介した小野小町の祖父とも、曾祖父とも言われているが真実は不明だ。

「小野篁はものすごく賢かった」を示す有名なエピソード

宮中に無断で立てられた立て札に「無悪善」と書いてあった。その読み方を、その時の天皇だった嵯峨天皇(006番の大伴家持で紹介した桓武天皇の息子)が小野篁に「これは何と読むのか」質問すると、「お聞きになれば不愉快になりますでしょう」とためらった。しかし強く促されて、仕方なく「さがなくてよからん(嵯峨天皇がいなければよいのに)と、読めます」と答えた。

読めたのは篁自身が書いたからだ、と嵯峨天皇が怒ると、篁は「だから申し上げられないと言ったのです。ですが自分なら何でも読めます」と主張するので「ならば、これが読めるか」と「子」という漢字が12個並んだ「子子子子子子子子子子子子」を天皇は突き付けた。すぐに篁は、「ねこのここねこ、ししのここじし」と読んだため、天皇は許した、というのがある。

嵯峨天皇も「三筆」の一人で、最高レベルの教養人

嵯峨天皇自身も、「三筆(さんぴつ)」と呼ばれた一人で、書道の名手だった。もちろん漢文にも精通している人で、「子×12」は天皇が作ったクイズだろうと言われている。2人ともいい勝負だ。でも武芸一筋だった篁を、学問の道に導いた人こそ嵯峨天皇だったので、「学問の父親」としては、内心はかなり嬉しかったのではないか。

ちなみに「三筆」の他の2人は「空海橘逸勢(たちばなのはやなり)」だ。このように小野篁は空海と、ほぼ同時代の人だったことも覚えておこう。残念ながら橘逸勢の方は、842年の「承和の変」で、失脚し、身分を失った後に怨霊化し、いわゆる「八所御霊」として上御霊神社と下御霊神社の両方に祀られている。

歴史的には嵯峨天皇は「源氏」の創設者でもある。「源」はたくさんいた嵯峨天皇の子供を、逼迫する財政事情があったので、皇族として扱わずに、「臣籍降下」させ、さらに直属の部下にした時に与えた名前だ。だから嵯峨天皇の時代には「源の~」という部下がたくさんいて、一大勢力になった。この方法を「賜姓源氏」といい、源氏になった人たちは「嵯峨源氏」と呼ばれる。

その子孫は全国各地に散らばって武士団を形成することもあった。後世の代々天皇も同じことをやり「村上源氏」とか「清和源氏」ができたのだ。このように嵯峨天皇はあまりにも聡明だったので、宮中を牛耳る藤原氏に暗殺されたのではないか、という疑惑もある。

篁の反骨と怪奇なエピソード

小野篁が37才の時、才能を買われて、遣唐副使に任じられた。しかし船の選択で横槍を入れてきた遣唐大使とトラブルになり、嫌気がさし、仮病を使って遣唐副使の座を勝手に降りたことを咎められ、島根県の隠岐の島へ流罪になってしまったのだ。この「わたの原~」の歌は、その時に詠んだものだ。それでも2年後には許されて都に帰り、それからは「野宰相」とか「野狂」を名乗り、朝廷に悪をなすものを成敗して回ったという武勇の伝説もある。

また怪奇なエピソードとしては人間でありながら、地獄で閻魔大王の裁判の手伝いをしていたというのがある。篁が若い時に助けてくれた藤原良相(ふじわらのよしみ)が熱病にかかり、一旦は死んで地獄の閻魔大王の裁きの場に出ると、小野篁がなんと大王の助手をしていた。篁の口利きで 良相 は許されて、生き返ったという。後に宮中で二人きりになったときに礼を言うと「大したことではないが、他言は無用にしてください」と言われたという。

しかし人の口に戸は立てられないもので、いつの間にか「京都の六道にある珍皇寺の井戸から地獄に出入りしていて、朝には朝廷に務め、夕べには冥府に仕える」という噂が立った。いつ寝ていたのか疑問だが、これは今昔物語集に入っている話だ。現代でも小野篁を題材にした小説はたくさんでている。

孫の小野道風(おののみちかぜ、「とうふう」とも読む)にも国民的エピソードがある

多くの人が、それ誰?と思うだろうが、日本のカードゲーム「花札」を使って遊んだことがある人なら、実は道風にはすでにお目にかかっている。道風は若いころから有名な書道家で後に「三蹟(さんせき)」と称されるほどだったが、そんな彼でもスランプに陥り、才能の限界に筆を折ろうかと悩んでいたことがあった。

そんなある雨の日、道風は散歩途中で、柳に蛙が何度も跳びつこうとしているのを見た。「いくら跳んでも無理だ」と道風が思っていると、風が吹いて、柳の枝が下がり、蛙は見事に跳びつくことに成功した。

これを見た道風は「偶然だけど、蛙は努力していたから成功したのだ。自分は努力をしているのか」と目が覚めて、改めて書道に励み、新境地を切り開いたという「伝説」がある。このエピソードは多くの絵画の題材とされ、花札の「雨 20点」で描かれている。

祖父の篁も激しい性格だったがそれ以上の努力家であった。孫にもそのDNAはしっかり受け継がれていたという伝説であろう。後に道風は平安時代の「蹟(「さんせき」と読む)」と称賛された。ちなみに「三蹟」の他二人は、藤原佐理(「ふじわらのさり」と読む)と、藤原行成(「ふじわらのゆきなり)のことだ。行成は50番で紹介する藤原義孝の息子だ。