数々の「伝説」に彩られた女性

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな

[現代和訳]
もうすぐ死んでしまいますが、あの世への思い出になるように、せめてもう一度あなたにお会いしたいです。

[作者生没年・出典]
生年976年 没年不明 後拾遺集 巻十三 恋三 763

[人物紹介と歴史的背景]
大病を患った時に詠んだ歌で、本名は不明。最初に和泉守を務める男性と結婚したからこう呼ばれている。ちなみに「泉」で済むところをわざわざ「和」をつけて「和泉」で「いずみ」と読むようになったのは、天皇の命令により、「和」を付けて縁起の良い名前にすることと、「泉」一語だと書類に書くときに字が揃わなくて不格好だから、という2つの理由があったとされている。

60番の小式部内侍の母親でもある

しかしある親王と深い仲になり、それが原因で離婚するが、そのままこの名前で通しているのはよくわからないところだ。その親王との恋道を物語風に自分で書いたのが「和泉式部日記」で、ある意味「暴露本」だ。

親王が早逝した後、藤原保昌と再婚する。彼は、道長の配下である源頼光の部下の一人で、武芸にも和歌にも優れた武人だ。彼女はさらに一条天皇の中宮になった道長の娘・彰子に教育係りとして仕える。しかし同僚の紫式部に「けしからぬかたこそあれ=行いが良くない」と言われ、道長からは「浮かれ女」と言われたが、平然としていた。

神様まで返歌するぐらいの名人

和歌はものすごく上手で、勅撰和歌集に238首入選しているのは驚異的で、しかも彼女の歌に関しては、神様までも返歌する。夫 保昌との関係に悩み、涼しいから夏でも観光で有名な京都の貴船神社で

物おもへば 沢の蛍も我が身より あくがれいづる 魂たまかとぞみる
「物思いにふけっていると、沢を飛ぶ蛍が、我が身から抜け出した魂のように見える」

と詠んだら、社殿の中から

おく山に たぎりて落つる滝つ瀬の 玉ちるばかり 物なおもいそ
「奥山の滝の水が飛び散るほどに、深く思いつめたりしなさるな」

という返歌が来た。
あるいは、和歌山の熊野詣において、突然に月経を迎えたので参拝不可能だ、と思い、熊野本宮の森を拝み、

晴れやらぬ 身にうき雲の たなびきて 月のさわりとなるぞ かなしき

と詠むと、夢の中で、熊野権現が現われ

もろともに 塵にまじはる神なれば 月のさわりも なにかくるしき

と返歌があり、式部はそのまま参詣することができたという「伝説」がある。

鎌倉時代の新興宗教・時宗とも縁が深い

ついでに言うと、鎌倉時代の新興宗教の時宗では、和泉式部との関係が深い。京都の誓願寺で、時宗の開祖一遍上人の前に、和泉式部の幽霊が現れ、頼まれるままに一遍が字を書いた額と取り換えると、和泉式部は「歌舞の菩薩」となり、舞い踊り、境内に安置している石塔へと帰っていったという「お寺の縁起」がある。もしかすると、彼女は時空間跳躍までできる超能力者だったのかもしれない、という妄想まで呼び起こしそうなぐらいの女性と言える。