当時の歌人として超一流の芸術家

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ

[現代和訳]
流れが絶え、音が聞こえなくなってから、もう長い時間が過ぎてた。でもその名は今も伝えられ、よく世間にも知れ渡っていることだ。

[作者生没年・出典]
生年969年 没年1041年 拾遺集 巻八 雑上 449

[人物紹介と歴史的背景]
本名は藤原公任(ふじわらのきんとう)。64番で紹介する藤原定頼の父親だ。京都の大覚寺は嵯峨天皇が上皇になられた時の離宮でもあるが、上皇がそこに滝を作ってご覧になったことを懐かしんで詠んだ歌。

「三船の才」呼ばれる

公任は学者であり、作文、和歌、管弦にすぐれ、書道家でもあり当時の歌壇の指導者。藤原道長が舟遊びをしたときに、漢詩・和歌・管弦の船に分けて名手を集めて競わせた時、公任はどれに乗っても良いぐらいの才能だったから「三船の才」と言われたぐらい、芸術家としてのスーパーマンだ。

彼に褒められた人は舞い上がり、ダメだしをされた人は寝付くか、酷い時は死んでしまうぐらいの「権威」が公任だった。漫画でいうなら、「美味んぼ」の海原雄山みたいなものかもしれない。例えば69番で紹介予定の能因法師が、歌の師匠と仰いでいた藤原長能(ながよし)という人がいる。彼は公任に自作を非難されたことを苦にして、病死したという説話もあるぐらいだ。ちなみに長能は、53番の右大将道綱母の弟である。

藤原道長と同時代の人

藤原道長の父 兼家が「うちの息子たちでは公任の影も踏めないだろう」とその才能にあきれていた時に、道長は「影はどころか頭を踏んでやります」と答えたという。

これを不遜と取るか、オレは政治家になってあいつの上になってやる、の意味で言ったのかどっちだろう?この発言が事実ならば、道長は一条天皇の御世に、公任を重用しているので、「オレは実務の政治家になる」という意味だったのだろう、と私は思う。

ただしそんな公任でもやはり人間で、愛娘を亡くした時は、出家してしまい、20年ぐらい仏門に仕えて、死亡する。

いわゆる三十六歌仙とは彼の秀歌撰「三十六人撰」に選ばれた歌人のことだ。ただし色々な「本」があって、有名なうちの1つが、鎌倉時代の絵巻物「佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)」とされている。

これは36名の歌人の肖像が描かれていた。しかしお金に目がくらんだ持ち主たちが、1919年(大正8年)に各歌人ごとに切り離して、掛軸装に改められた。どんな時代にもお金第1で、文化を軽く考えている人はいるんだな、とあきれてしまう。