続けて「母」の登場、「儀同」とは役職を総合した表現

忘れじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな

[現代和訳]
いつまでも忘れまいとすることは、遠い将来まではとても難しいものですから、いっそのこと、今日を最後に私の命が終わって欲しいものです。

[作者生没年・出典]
生年不明 没年996年 新古今集 巻十三 恋三 1149

[人物紹介と歴史的背景]
本名を高階貴子(たかしなのきし)といい、関白 藤原道隆(かんぱく ふじわらのみちたか)の妻。「儀同三司」とは、「太政大臣、左大臣、右大臣の『三つの司=役職』と同じ待遇である」という意味。

53番の右大将道綱母で紹介した、「氏の長者」藤原兼家は989年に太政大臣になる。989年には兼家は長男 道隆を大臣の一人に昇進させた。

藤原一族内部で共食いが始まる時代

翌990年には、自分の孫である一条天皇が待望の元服を迎え、成人になる。その時に関白になるが、すぐに辞任し、長男に関白を譲って、2ヶ月後に病死し、長男 道隆が「氏の長者」となる。

これを境に、兼家の家系だけが栄えるのだが、獲得する植民地がなくなった帝国同志が共食いを始めて世界大戦になるのと同じで、今度は兼家の息子や孫たちが地位を争う。

兼家の3人の息子と1人の娘が重要人物だ。まず関白となった長男 道隆の妻が、この儀同三司の母=高階貴子で、息子に藤原伊周(ふじわらのこれちか)、娘に一条天皇の中宮(第1夫人のこと)になった定子(ていし)がいる。

この定子に仕えたのが62番で紹介する「枕草子」の作者 清少納言で、今あげた誰もが「枕草子」のメインキャラクターだ。

有名な藤原道長が登場する

ここまでは順調だったが、道隆が995年に病死してしまい、一週間後には後を継いだ次男 道兼も病死する。後継とされたのは、末の弟の藤原道長と、道隆の息子 伊周だった。しかし亡父 兼家の娘で、道長の姉、伊周の叔母、一条天皇の母である詮子(せんし)が、弟の道長を強く推薦したことで、995年に道長は大臣に準じる地位=内覧(ないらん)になった。内覧とは天皇に政治事項を伝達する前の文書点検者で、関白に継ぐ政治的地位がある。

この時の詮子の考えを推測すると
①一条天皇のお気に入りの中宮 定子の兄 伊周を排除する=死亡した弟 道隆の息子に権力は与えない⇒この弟はもう死亡しているのであてにならないし、甥や姪はあまり可愛くない。

②もう一人の弟 道長に恩を売って味方に引き入れる⇒味方を増やすことになるし、実の弟には文句も言いやすい。この2人は同母姉弟で、子供の時は父・兼家の東三条の館でいっしょに過ごしていたから、気心もしれている。また、どんな時代でも、姉と弟というのは「姉御と使いっぱ」みたいな関係がある。

③結果的に道長を引き上げたのは息子の一条天皇と自分になるから、立場は強くなる⇒自分の息子は一番可愛い。

以上3つを同時に達成することだったと思う。「敵を減らし、味方を増やす」の基本大戦略に忠実だったわけで、さすが希代の陰謀家 藤原兼家の娘だと感心する。また女性は「家を守る」ことになると、極端な話なんでも実行する傾向が強いことを考慮すると、「烈女で賢母」だろう。

清少納言の女主人・定子も歴史から消えていく

その後、伊周とその弟は別のことで事件を起こし、配流される。儀同三司の母=貴子はこのあたりで病気が重くなって亡くなっている。その死に方も尋常ではなく、運ばれていく伊周の背中に貼りついて離れなかったとか、死の床についた時に、一目会ってからでないと死ねないと言うので、家人たちが配流地から、密かに伊周を連れてきた。これにはさすがに朝廷も貴人である儀同三司の母=貴子に遠慮したのか、怨霊になってしまうと困るからか、彼女が死んでから、配流地に戻したという。

色々なことが重なったショックで、当時妊娠中だった定子も出家して、宮中を去ろうとするが、一条天皇は慰留し、997年に定子は還俗して=出家を取りやめて、宮中に留まった。あまりごねても格好悪いと思ったのか、道長も特に反対はしなかったようだ。定子は999年に男子を生むが、結局その男子は皇太子にはなれなかった。

道長の全盛期を迎える

1000年には道長は、先に一条天皇の女御としていた自分の娘・彰子を「中宮=第1夫人」、定子を「皇后=事実上の第2夫人」としたが、彼の権勢にはもはや誰も逆らえなかった。なお定子は1001年に出産直後に死亡する。こうして「兼家の長男が継いだ『中の関白家』」は滅びていく。「中」は「父親と末の弟にはさまれた」の意味だ。

定家は「滅びていくもの」も、百人一首に収録していくことが