蜻蛉日記の作者で有名な女性

嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

[現代和訳]
あなたが来てくれないことを、嘆き哀しみながら、ひとりで夜を過ごす私にとって、どれだけ夜明けが長く感じられるものか、あなたはご存じですか。

[作者生没年・出典]
生年937年 没年995年 拾遺集 巻十四 恋四 912 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
「うだいしょう みちつなのはは」と読む。名前は不明だが、「蜻蛉日記」の作者で「有名」だ。身分が高くなかったので、「氏の長者」藤原兼家の正妻にはなれなかった。そのため息子の道綱も、右大将が精いっぱいだった。

ある夜に兼家がやってきたが、門が開くのに時間がかかり「立ちくたびれた」と彼が文句を言うので、彼女が「私のほうこそ」の意味をこめて詠んだものだ、と詞書にある。実際は、兼家がさらに他の女性の家に通いつめたことに対して腹を立てて、門を開けさせなかったことがあり、その後でこの歌を送ったと「蜻蛉日記」にはある。

当時は「一夫多妻制」

女性は男性が来るのを待つしかない悲しい運命にあったので、こういうケースは多かったと推測される。その鬱憤を日記に書いたから、後世の我々も、当時の雰囲気を知ることができるわけだ。

少し藤原兼家について述べておく。兼家自身は45番で紹介した藤原伊尹の弟で、父 師輔の三男にあたる。「氏の長者」である長兄 伊尹に引き立てられ、順調にキャリアを重ねていた。

太政大臣である伊尹が危篤状態になった時に、すでに大納言だったため、次期関白になれるチャンスが回ってきた。

しかし、次兄の兼通(かねみち)が、彼らの妹からあらかじめ手に入れておいた「関白の事は次第のままにするべし=関白については兄弟の順番を守ること」と言う円融天皇にあてた手紙をたてに取り、中納言だった兼道が「2階級特進」で関白になりおおせた。彼らの妹は円融天皇の母親だったからだ。

関白になった兼通は、兼家を全く昇進させなかったし、元々性格も反対で、仲の悪かったこの兄弟はますます憎しみあうようになった。

「親父ギャク」を連発するような兼家

兼家は人気があったが、対して 次兄 兼通は朝酒の肴に、殺したての雉を食べることを習慣にしていたことが「大鏡」には残っている(卯の刻に呑むので卯酒と言う。唐代の詩人 白楽天にならったもの)ぐらいで、なんだか不気味だ。これだけでも十分普通ではない性格で、あまり近づきたくはないし、人気があったとも思えない。

次兄の兼通が病死して、やっと道が開けた兼家だが、彼も十分悪い人でもある。早く出世したかった彼は、自分の娘と円融天皇の間に、後の一条天皇になる男児が生まれると、嫌がらせでその子を自分の屋敷から出さず、お目見えもさせなかった。陰険なやり方に参った円融天皇は「16年間天皇を務めたから、近いうちに兄の子供に(冷泉帝の子供つまり花山天皇のこと)に譲位するが、その時にはお前の孫を皇太子=東宮にする」と約束した。

しかし悪人でもある

そして984年に花山天皇が即位したが、2年後の986年に花山天皇のお気に入りの女御が病死してしまい、世をはかなんだ彼は「出家したい」と言いだした。その悲嘆に乗じた兼家は、道長を含む4人の息子たちに指示して、夜中に言葉巧みに天皇を連れ出し、その日のうちに退位・出家させてしまい、自分の孫を即位させて一条天皇とした話は有名だ。

私もこのエピソードを知ったとき、呆れてしまったが、海音寺潮五郎も自著「悪人列伝」で、「天皇をだまして拉致するぐらいだから、十分悪人の資格がある」と述べている。

ちなみに、天皇を警護して、お寺に連れていった武士団の頭が「大江山の酒呑童子退治」で有名な源頼光で、彼の父親が源満仲だ。頼光は、父親に従って、最初は兼家の家人だったが、息子の藤原道長の器量に惚れて、家臣になり、側近にまでなったという。武芸もできたが、歌も作れて「拾遺集」などの勅撰和歌集に歌が収録されているぐらいの「文武両立」の人でもある。

頼光四天王が部下だった

その頼光には嵯峨源氏の渡辺綱、坂田金時などの「頼光四天王」や、56番の作者 和泉式部の夫になる藤原保昌などの家臣がいたという伝説がある。坂田金時が、おとぎ話の「金太郎」のことで、兵庫県川西市のキャラクター「きんたくん」だ。

最後に兼家は、道綱母に完全に冷たかったのかというと、そうでもなく、出張で京都を離れると道綱母に、お土産や手紙を頻繁に送るような人だったことが「蜻蛉日記」からわかる。他の女性にもマメだったのかもしれないが、京都にいる時は、気の向いた時にしか来ないくせに、かなり道綱母に甘えていた面が大きい。魅力的な悪人で、ずるいお人だったのであろう。こんな男性に惚れてしまい、しかもその庇護下にある女性の人生は哀しいなあ、と思ってしまう。