歌の才能がある在原氏

立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む

[現代和訳]
あなたと別れて因幡の国(=現在の鳥取県)へ行くけれども、稲葉の山の生えている松のように、待っていると聞いたなら、すぐにも戻ってきます。

[作者生没年・出典]
生年は818年で没年は893年。本名は在原行平(ありわらのなりひら)。古今集 巻八 離別 365

[人物紹介と歴史的背景]
在原行平は次の017番に登場する在原業平の兄にあたる。祖父が平城天皇、父が阿保親王で、平城天皇は嵯峨天皇の兄、だから桓武天皇のひ孫になる。

血筋も良いため警戒された

在原行平は012番の僧正遍昭とは親戚だ。藤原氏に警戒されていたため、地方で役人を務めることが多かった。そのためか、名前が「在原=野原に在れ」からなのかは不明だが、官位にちなんで「在民部卿」とか「在中納言」とも言われた。

貴族出身の人が遠い国をさすらう物語のパターンを「騎手流離譚(きしゅりゅうりたん)」と呼ぶ。原因は不明だが、行平が一時的に神戸の須磨に引きこもっていたことがあり、その時の話が膨れ上がって「貴種流離譚」の原形になったとされている。さらに「源氏物語」で、光源氏が須磨に引きこもる話の下敷きになる。彼自身はまじめな役人だったが、現代の時代劇「水戸黄門」みたいなものだろう。

在原氏が衰退していく近い原因は、850年代に一族を上げて推挙していた当時18才の惟喬親王(これたかしんのう)が、藤原主流を率いる藤原良房(ふじわらのよしふさ)の強力な壁の前に負けて、文徳天皇の皇太子になれなかったことが原因だ。惟喬親王を押しのけて立太子されて、そのまま天皇位に就いたのが当時8才の異母弟 清和天皇であった。

系図を見ればわかるが、藤原氏はまさに「皇室に絡みついた藤」のようになっている。そして天皇の代が変わるごとに、藤原系でない側近はすべて「左遷」される。仁明天皇の側近だった012番の僧正遍昭や、009番の小野小町は良い例だ。

ライバルだったのに、退位した清和天皇に付き従う

879年に御所の大極殿に落雷を受けたショックで、28才だった清和天皇が、息子の陽成天皇に位を譲って退位、畿内の供養巡礼の旅に向かわれた。この時、在原行平は、弟 業平といっしょにお供をした。行平は「清和天皇自身には責任はない」と考えたのだろうし、面倒見の良い人でもあったのだろう(そのわけは040番の平兼盛のところでわかります)。

3年後に、今の亀岡市の愛宕山西側にある「水尾(みずのお あるいは みずお)」という人里で清和天皇は亡くなり、かの地に葬られた。今でも御陵があるので、清和天皇は「水尾の帝」とも呼ばれる。

清和天皇は「清和源氏」の祖に当たる、初代は源満仲

清和天皇の2代後の子孫 源経基(みなもとのつねもと)が「清和源氏」の祖になり、その息子・源満仲(みなもとのみつなか)が兵庫県川西市 JR川西池田駅の前に銅像になって立っている。

ちなみに源満仲は「満仲(まんちゅう)は武士の始まり」という昔のイロハかるたで、紹介されていることも知っておこう。

清和天皇には17人も子供がいて、彼らが各地で力を蓄え、さらにその子孫たちが後に、「保元・平治の乱」をきっかけに貴族を押しのけ、最後には「承久の乱」を乗り越えて、「武者の世」を作るのだから、世の中は何が巡ってくるのかわからない。