河原左大臣=源融も嵯峨天皇の息子で桓武天皇の孫だった

陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに

[現代訳」
奥州のしのぶもじずりの乱れ模様のように心が乱れているが、誰のためにこのように思い乱れているのか、それはあなたのせいなのは間違いないです。

[作者生没年・出典]
生年は822年で没年は895年。古今集 巻十四 恋四 724

[人物紹介と歴史的背景]
本名は源融(みなもとのとおる)。彼は011番の「参議篁=小野篁」の項目で紹介した嵯峨天皇の息子で「賜姓源氏」の一人だ。つまり桓武天皇の孫になる。京都六条の鴨川の近くにある、豪華な河原院に住んでいたから河原左大臣と呼ばれた。彼は宇治にも別荘を持っていて、それが後の平等院鳳凰堂に発展する。

河原左大臣はお金持ちで風流人だった

河原左大臣はものすごいお金持ちで、何百人もの人を雇い、現在の兵庫県の尼崎から海水を運ばせて、河原院の庭で塩を精製する装置を作ったりした。しかし左大臣の死後、維持する費用が子孫には出せない上に、鴨川の氾濫が相次いだこともあって、豪華な河原院は幽霊屋敷のように廃墟化した。そこが「源氏物語」の「夕顔」の章で記述されている「廃院の怪」の舞台だ、と言われている。

またその徐々に廃墟化する河原左大臣邸にわざわざ人が集まって歌会をしたりするものだから、いつの世でも「廃墟萌え」の人はいるのだな、と思う。

「陸奥(みちのく)」と言って東北地方への郷愁を述べた後、「しのぶもぢずり」という「忍草(しのびくさ)の葉や茎を布に摺りつけて、よじれたような模様」を連想させて、よじれるような気持ちに喩え、視覚的な効果を狙ったことは、出来栄えの良いことを示す、と評されている。

確かに建築技術に優れた人なら、視覚的・彩色的にも鋭いものを持っているはずなので、そこが歌に現れていると考えられるだろう。現代人には少し読みにくい歌ではあるが、特徴的なので覚えやすい部類に入る。

光孝天皇はかなりの高齢で即位した

君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ

[現代和訳]
あなたのために春の野に出て若菜を摘んでいましたが、春なのに雪が降ってきて、私の着物の袖にも雪が降りかかっています。

[作者生没年・出典]
生年は830年で没年は887年。第58代天皇 古今集 巻一 春上 21

[人物紹介と歴史的背景]

光孝天皇は13番の陽成天皇の次の天皇だ。その時55才で、一親王として生涯を終わるはずだったが、陽成天皇を見限った当時の太政大臣 藤原基経が、従兄弟である光孝天皇を強く推薦したから即位できた、まさに「ロボット天皇」だった。

実権の全くない完全なロボット天皇だった

この歌は彼がまだ親王の時代に作った歌で、若菜を摘んで送り届けた相手が誰なのかは不明である。また光孝天皇自身が、わざわざ野原に出かけて摘んだのではないのも事実だ。後半部分が001番の天智天皇の歌とよく似ているので、間違えないようにしたい。