万葉集に載る歌のコレクターで、かなりの歌オタク

鵲(かささぎ)の渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

[現代和訳]
鵲(かささぎ)が渡したという天上の橋のように見える宮中の階段であるが、その上に降りた真っ白い霜を見ると、夜も随分と更けたのだなあ。

[作者生没年・出典]
718年ごろ生まれ785年没 奈良時代の歌人で万葉集の編者。三十六歌仙の一人。新古今 巻六 冬 620

[人物紹介と歴史的背景]
「鵲(かささぎ)の渡せる橋」は夏の七夕・7月7日に天空にかかると言われる、想像上の橋のことだ。それがなぜ冬の季節の歌に詠みこまれているのか、考えてみれば変な歌で、「この歌は地上の風景を歌ったものだ=地上説」と「いや、想像上の天空を歌った歌だ=天空説」とミックス説が争っている。

またこの歌自体も「家持集」に入ってはいるが、家持自身の歌という確証はないし、万葉集自体にも収録が確認されていない、極めて怪しい歌だ。

家持の生涯は死んでからも波乱万丈

大伴家持の生涯の説明をしようとすると、どうしても絡んでくるのが桓武天皇で、この人のおかげで彼の一生は死後も、とんでもないものになってしまった。また桓武天皇自身が、今後、百人一首中の「影のキィーパーソン」になるので少し紹介しておく。

桓武天皇は「鳴くよウグイス平安京=794年」に今の京都に遷した天皇で、切りの良い50代目で覚えやすい。しかし裏では、彼の周りにたくさんの「怨霊」が発生している「困りものの天皇様」でもある。他に困った天皇様は、鎌倉時代前期の後鳥羽天皇と、鎌倉時代末期の後醍醐天皇のお二人だ。

桓武天皇も苦労人だった

桓武天皇は若いころは、天皇位にはほど遠く、せめて地方役人になろうとして「就職活動」に励んでいたぐらいだった。当時の天武天皇系の女性天皇が770年に崩御した後、誰を次の天皇にするかでもめた。天武系皇族は藤原氏主流の思うままにならない人が多く、嫌われたのが理由だ。

そこで天智天皇系の生き残りで、すでに高齢だった桓武の父親が、彼らに押されて天皇位に就き、第49代の光仁天皇となり、運命が変わる。光仁天皇は「アルコール中毒」のふりをして「私は無害な人間ですよ~」と自身を韜晦していた人物でもある。ただし本当のアル中ではなく、薄めた酒を身に振りかけていただけなのではないか、と私は疑っている。しかし何を、誰を恐れていたのだろうか?

藤原氏の陰謀が始まる

どちらにして光仁天皇は、藤原氏にとって「都合の良い」人物だったからでもあるが、どうやら息子の桓武天皇の資質も見抜いていたらしい。しかし、一つだけ問題があって、父帝の光仁天皇には、桓武天皇の身分の低い母とは違った、天武系の正式な妻がいて、しかも、その間に男子が生まれていたことだ。その妻は井上内親王(いがみないしんのう)と言って、有名な「奈良の大仏」の建立者である聖武天皇の娘だ。これは藤原氏には困ったことだったので、難癖を付けて2人を排除し、後におそらく殺害してしまった。彼らが第1の怨霊となる。

怨霊が生まれる

井上内親王は義理の息子である桓武天皇と、男女の関係にあったとまでする記録もあるが、恐らくウソで、彼女が身の危険を感じて、当時親王だった桓武天皇に保護を求めてきた事実を、歪曲したものと思われる。でも桓武天皇は、将来に獲得できる天皇位を秤にかけて、結果的には見殺しにしたことになる。

彼らの殺害後、773年37才の時、桓武天皇は正式に皇太子=東宮(「とうぐう」と読み「春宮」とも書く)になり、781年に父帝の譲位を受けて44才で天皇となり、父帝の意向通り、弟の早良親王が皇太子になった。しかし桓武天皇も人の子で、自分の息子を皇太子ひいては天皇にしたかったのは事実だ。大伴家の悲劇はこの後に起きる。

家持の死後1ヶ月弱で大事件発生

大伴家持自身は、勢力と圧力を増す藤原氏から、没落していく大伴家を保とうと努力し、地方・中央の官職を歴任、785年に68才で死没した。家持の死後20日余、平城京の次期首都である長岡京を建設していた、責任者・藤原種継が夜間に弓で射殺されるという、デューク東郷ことゴルゴ13も真っ青の暗殺事件が起きる。

首謀者は弟で皇太子の早良親王とされ、大伴家の一部の人間もそれに協力していたことが発覚し、律令制による「縁座」の刑により、家持の息子も領地没収のうえ、流罪になる。さらにはすでに死亡していた家持まで、遡って官位を剥奪されてしまう。家持は春宮坊の長(=皇太子の面倒を見る役)を務めていたから「生きている間に、謀反の事実を知らぬわけがない!」と決め付けられたわけだ。

早良親王は徹底的に無罪を主張したが、流刑と決まり、抗議の意味で食を断ったため、淡路島への護送途中で死亡、淡路島に葬られた。この後、桓武天皇の周りでは妻や母が急死、長男(後の平城天皇)も錯乱状態・情緒不安定になるなどの「怪奇現象」が相次いだので、早良親王の「祟り」だと言われ、第2の怨霊の誕生だ。

名誉回復は死後21年後だった

京都上京区にある上御霊神社

桓武天皇が長岡京をあきらめて、今の京都府の平安京に遷都したのも、心の平安を得たかったからと言われている。死する家持が元の官位に晴れて復帰したのは、21年後の806年(延暦25年)、桓武天皇が崩御する年だ。公式に種継暗殺事件に関する者すべてを許すという命令(これを恩赦とか特赦という)を出していたから、桓武天皇は、弟の早良親王、大伴一族や家持に「冤罪」を被せて後悔していたに違いない。

家持が集め、編纂していた「万葉集」が公になったのも、この時からだ。種継暗殺事件で連座・流刑になり、大伴家持自身とも親しかった皇族の一人が、復位後すぐに大伴家から万葉集の「原形」を取り出し、今の世に見える形でまとめたのも事実だし、さらにその人は京都の上御霊神社の関係者になってもいる。

上御霊神社は早良親王、謀殺された井上内親王と彼女の息子など「八所御霊」を祀っているところだ。以上から、桓武天皇と、家持の子孫との間で、何か取引があったと考えるのは「ゲスの勘繰り」ではないだろう。