柿本人麻呂 あるいは人麿

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

[現代和訳]
雄と雌が離れて寝るという山鳥だが、その山鳥の長く垂れ下がった尾のように、こんなにも長い夜を、私もまた、ひとり寂しく寝るのか。

[作者生没年・出典]
生年不明で没年は推定710年。持統・文武朝の白鳳時代の詩人。三十六歌仙の一人。
万葉集巻十一 2808 と拾遺集巻十三 恋 三 778より

[人物紹介と歴史的背景]
万葉集に長歌約20首、短歌約75首が収録されていて、長歌の完成度が高いことから「歌聖」とも呼ばれる。持統天皇などの「宮廷歌人」と称されてはいるが、身分自体は下級官吏という説が通説で、実在はしたのだろうが「経歴不明・係累不明」の部類に入る人物だ。

そんなに有名な歌ではないが、なぜか収録されている

彼の歌の中で、どちらかと一番有名なものは「大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも」だが、なぜにこちらが収録されていないのか、謎と言えば謎。

哲学者 梅原猛は、大宝律令を完成させた藤原不比等が、傲慢不遜な反体制の詩人である柿本人麻呂を追放し、最終的には水死の刑にかけたと著書「水底の歌」で主張している。本当なら大変な話だ。また柿本人麻呂と言えば「いろは歌」の「とかなくしてしす=咎なくして死す」の暗号の話も有名だ。

「いろは歌」は字母歌と呼ばれ、48文字の全てを1度だけ使って作ってある。作者は源為憲(生年不明1011年没)とされていて、「いろは歌」の最後だけを並べると、「とかなくしてしす」と読める、というのだ。そしてそれは古来から連綿と続く人麻呂の恨みを伝えるものだ、という人も多い。ほんまかいな、とは思うが、まだ3人目なのにあまりいい話が出てこない。百人一首って大丈夫か?

山部赤人 (やまべのあかひと)

田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ

[現代和訳]
田子の浦の海岸に出てみると、雪をかぶったまっ白な富士の山が見事に見えるが、その高い峰には、今もしきりに雪がふり続けている。

[作者生没年・出典]
生没年不明 万葉集 巻三 318、新古今集 巻六 冬 675より。

[人物紹介と歴史的背景]
奈良時代初期の宮廷歌人で下級の役人だったとされるが、やはり詳細は不明。でも古今集の序文「仮名序」の中で「人麻呂と赤人は甲乙をつけがたい。人麻呂が赤人の上に立つことも、赤人が人麻呂の上に立つこともむずかしい」と、編者 紀貫之に評され、柿本人麻呂と並ぶ「歌聖」とされる。

田子の浦は静岡県にある

ちなみに「田子の浦」は静岡県富士市 田子の浦港付近を一般に指すと言われていて、ちゃんとそこから富士山が見える。でももう少し西側ではないか、と研究者は言い、地元 田子でも肯定的な見解は出ていない。

また実際に、田子の浦から遠く富士山が見えても、その山頂に雪が降っていることまで見えるわけがないので、「そのように見える」という「幻影を形つくった心象風景」を歌ったものだとされている。俳句の神様 松尾芭蕉も見えていないところから、見えているかのように作った歌が結構あるから、詩人はこの手法を使うことが多いようだ。

猿丸大夫 (さるまるだゆう)

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

[現代和訳]
奥深い山の中で、紅葉をふみわけて鳴いている鹿の声を聞くときは、この秋の寂しさが、いっそう悲しく感じられる。

[作者生没年・出典]
生没年不明 古今集 巻四 秋上 215より。三十六歌仙の一人。

[人物紹介と歴史的背景]
893年 寛平五年九月の 光孝天皇の第二皇子 是貞親王の歌合の席で読まれた歌自体は由緒正しいものだ。覚えやすく、情景もつかみやすい一番人気の歌で、「猿丸太夫集」という歌集もあるのに、その作者「猿丸太夫」が誰なのか、さっぱりわからない謎がある。芸名かリングネームみたいなものか?

やはり「経歴・係累不明」の謎の人物

例の古今集の序文「真名序」の中で「大友黒主の歌は古の猿丸太夫の次なり」と、編者 紀貫之に評されているところから実在の人物と考えられてはいたようだ。ちなみに鹿は甲高い音で「ヒョー」と鳴く。

有名人なのに「経歴も係累も不明」という人物は日本史にたくさんいて、百人一首では、後で登場する蝉丸喜撰法師もそうだし、室町時代末期の「風神雷神屏風図」を描いたとされる俵屋宗達や、江戸時代の絵師・東洲斎写楽などはその中のうちに入る。