権中納言敦忠(ごんちゅうなごん あつだた)

逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり

[現代和訳]
このようにあなたに逢ってからの今の苦しい恋心にくらべると、昔の恋心の苦しみなどは、全く比べものにならないくらい、何も考えていなかった気がします。

[作者生没年・出典]
生年906年 没年943年 拾遺集 巻十二 恋二710 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
「権」とは「副とか補」の意味。あるいは「それと同じ待遇」の意味。元々は「正式官位ではないけど、人員が不足なので補充した」の意味だったが、途中から正式官位と同じになった。

深い関係にあった女性に送った歌なのはバレバレ

歌の文言だが、「逢ひ見て」まで述べているので、この男女は深い関係にあったことがわかる。古文で「見る」のはただ見るのではないのを前にも紹介した。

「見まほし」と言えば「見たい」を越えて「欲しい、自分のものにしたい」まで意味する。スミマセン、ど真ん中の表現で。この歌は「後朝の歌」であることはわかっている。歌の状況説明に当たる「詞書」には客観的に「はじめて女のもとにまかりてまたの明日につかはしける」とだけあるが、現代の感覚ではそういうプライベートなモノをよく公開するな、とは思う。

しかし若くて死ぬことを予感していた

彼はイケメンで、女性にはモテモテだった。しかし38歳で若死している。実は、当時の権力者で菅原道真を追放した藤原時平の息子だった。父 時平は24番で紹介した菅家=菅原道真の「祟り」で、やはり40才前に早死にしているので、自分も長くはないだろうと覚悟していたようだ。さらには、39番の参議等の娘を妻にしているが、その間にできた女児も早死にしている。こうなると、普通の感覚の人だったら、「もうどうでもいいか、オレの人生は」と思っても仕方がないかもしれない。

さらに彼は、れっきとした一流貴族の一員だった。こういう場合は色恋に走る傾向が強い。38番で紹介した右近とも交際があり、38番の歌は、実は、最近姿を見せない敦忠への不満だった。目崎徳衛氏は「敦忠は自分が百人一首の作者でもあるが、百人一首の歌の相手にもなったほどの色好み」と指摘するが、まさにその通りだ。ただしこの歌の相手は右近ではないから「オイオイ」と言いたくなる。

こうやって菅原道真の祟りもあってか、時平の子孫は先細りしていったのだ。祟りってこわいな。ここらあたりから「同じ藤原氏でも主流とそうでない人たち」が出てくる。

中納言朝忠 (ちゅうなごん あさただ)

逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし

[現代和訳]
あなたと出会うことが一度もなかったのならば、むしろあなたのつれなさも、わたしの身の不幸も、こんなに恨むことはなかったでしょう。出会わない方がよかった。

[作者生没年・出典]
生年910年 没年966年 拾遺集 巻十一 恋一678 三十六歌仙の一人

人物紹介と歴史的背景]
「天暦歌合」での試合で勝負した歌で、「ことばの感じがいいからこっちの勝ち」と判断された。「大和物語」では人妻との恋も述べられている。

この歌自体は、よくできているし、彼も歌の名人だった。50才の時に詠んだものだから、相当遊び慣れていたようだ。