本名は藤原伊尹(ふじわらの これただ / これまさ)。

哀れとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

[現代和訳]
捨てられた私を哀れだと同情を向けてくれそうな人も、今はいません。消えていく日を、どうすることもできず、ただ待っている私です。

[作者生没年・出典]
生年924年 没年972年 拾遺集 巻十五 恋五950 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
藤原伊尹は26番で紹介した藤原忠平の孫で、40番の平兼盛で紹介した「村上天皇ご臨席の天徳歌合」で主審を務めた藤原実頼の弟・藤原師輔(もろすけ)が父親だ。孫に小野道風、藤原佐理とともに「三跡」と呼ばれた書道の名人・行成がいる。

師輔はこの歌合の後、すぐに60才で死んだが、娘を村上天皇の妃にして2人の男子を次期天皇候補にもうけていた。つまり伊尹は次期天皇候補である、2人の甥の伯父さんだ。

異名の割には非情なところもある

彼は順調にキャリアを積み、村上天皇が崩御した後、彼の甥にあたる男子のうちの一人が冷泉天皇として即位した(在位967年~969年)。

しかし冷泉天皇は精神に異常が見られ、数年で退位する見込みが濃厚になったため、皇太子を早期に定めておく必要が生じた。

この時、先帝 村上天皇には、やはり「天徳歌合」で副審を務めた源高明の娘が生んだ別の男子もいた。そこで陰謀を仕掛け、源高明を失脚させたのが伊尹ではないかと噂された。

その時に活躍したのが「武士の始まり」と言われる源満仲だ。満仲は「清和源氏の里」と呼ばれる、兵庫県川西市のJR川西池田駅の前に銅像が立っている。

ちゃっかりと伊尹はもう一人の甥を皇太子にして、その間に、冷泉天皇の妃に自分の娘を入れ、男子をもうけた。予想どおり冷泉天皇が早期に退位した後、もう一人の甥が即位して円融天皇になり(在位969年~984年)、抜け目なく伊尹は、自分の孫を皇太子に据える。

こうして晴れて伊尹は「氏の長者」になった。後、太政大臣、摂政となり、一条摂政と称された。十分に欲が深い彼を「謙徳公」と呼ぶのは、何だか皮肉だろう。

ついでに言うと歴史的に、「~徳」と名の付く天皇はあまり良い死に方をしていない。もしかすると彼もそのひそみに倣って、こう呼ばれたのかもしれない、と私は考えている。

子孫は勢力を保てなかった

しかし彼が972年に死亡した後、彼の孫が花山天皇として即位した(在位984年~986年)が、伊尹の弟の策謀により、花山天皇は騙された形で出家されられて退位し、一条天皇(在位986年~1011年)の御世になると、伊尹の子孫たちは勢力を失い、二度と主流にはなれなかった。

この「伊尹の弟」は藤原兼家といい、彼は53番で紹介する予定の「右大将道綱の母」の夫であり、一条天皇の祖父であり、有名な藤原道長の父親だ。ただし道長の母は、兼家の正妻であった。

平安時代は全く「平安」ではなく、一族といえども、油断も隙もあったものではないのが、これでわかるだろう。藤原伊尹はペンネームを使って自分が主人公のラブストーリーの歌集を作り、「後撰和歌集」撰者の一人でもある。この人自身は十分「リア充」の「勝ち組」だ。でも死後は子孫が主流になれず、埋もれていってしまった。そういう人たちを代表して鎮魂する意味で、定家は、彼を百人一首の一人に選んだのかもしれない。