すっごく有名な天皇

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
[現代和訳]
秋の田の小屋にいると、屋根にある荒い苫の目から入ってくる夜露が、私の着物の袖を濡らしてしまっている(農民の生活は大変だな~、と思う)。

[作者生没年・出典]
626年生まれ671年没、在位668年から671年 第38代天皇 後撰集 巻六 秋中 302 より

[人物紹介と歴史的背景]
普通は「てんちてんのう」と呼ばれている。ちょっとでも日本史を勉強した人なら、知らない人はいないぐらいの有名な天皇だ。飛鳥時代まで、色々な「王朝」が存在したが、今の天皇家につがなる「創始者」と言ってもよい。

由緒正しい完璧な「英雄」だが

大化の改新関係系図
天皇と皇室関係は黄色枠・藤原氏関係は紫色枠

中大兄皇子の時代に忠臣 中臣鎌足(鎌子とも言う)とともに、聖徳太子の息子 山背大兄皇子を殺害し、帝位を狙っていた「悪人」蘇我入鹿を、宮中で殺害した645年「大化の改新」別名 乙巳の変(いっしのへん)で一躍脚光を浴び、その後の政治を主導した。後に母親の皇極天皇の後を継いで、即位し、庚午年籍(こうごねんじゃく)や近江律令を制定した「英雄」とされている。

しかし日本+百済連合軍 vs 唐+新羅連合軍で行われた663年の「白村江の戦い」(「はくそんこう」とも「はくすきのえ」とも読む)で負けたことが大きかった。この3年前の660年に唐朝 中華帝国が新羅と手を組み、百済を滅ぼしたことに対抗したのだが、日本の天皇の祖先は百済出身と言われているから手を貸したのだ。また唐の勢力が日本に及ぶことを恐れたことも原因だ。

敗因は、戦場になった干潟の、干満の差を読むことに失敗したことだと言われている。敗戦後、北九州の大宰府に「水城(みずぎ)」を築き、そこに勤める兵士を防人(さきもり)と呼ぶ。

この敗戦後の防衛行動で、民衆を圧迫したことが原因だろうが、日本書紀を丁寧に読むと、民衆はあまり天智天皇のことを褒めていないどころか、失火騒ぎなど、やたら事件が多い。また女性にモテモテというのでもなく、井上靖の小説内では、どちらかというと、恫喝的で荒々しい人物と描かれているのは、案外正しいと感じる。

和歌自体も、天皇の御製と言われているが、万葉集に収録されている「よみ人知らず」の歌と良く似ているし、実際は民衆のための政治を行っていなかったから、歌の世界でだけ人物修正を図ったのではないか、と疑問視する説も多いし、私にはその方が自然と思われる。

大化の改新は「すごいこと」だったのか?

天智天皇は鎌足に「大織冠(「たいしょっくかん」とも「だいしきのこうぶり」とも読む)」という大臣の位を授け、「藤原」の姓も授けた。この時、他の豪族たちは「藤のごとくからみついて帝を籠絡するだろう」と言った。

さて、669年には片腕と頼む中臣鎌足が死ぬ。鎌足が死ぬ少し前に、彼の家に落雷があった、と書紀に記されている。当時落雷は「祟り」の意味だから、鎌足もかなり恨まれていたことがわかる。百人一首の謎はこの第1首目がなぜ天智天皇なのか?から始まる。これに対する私の勝手な解答は、57番の紫式部の紹介で「意外に知られていないこと」として述べている。

671年に天智天皇が崩御するのだが、当時大海皇子と呼ばれた、弟 天武天皇の手先が暗殺したのではないか、とも言われている。また天智天皇が死没した土地名も複数伝えられており、その最期も謎が多い。

天武天皇が天智天皇の息子と天皇位を争ったのが、有名な672年の「壬申の乱」だ。死んだ後でも、王国が揺るぎなく安定していて、初めて「名君」と評価されるのが歴史の定説なら、天智天皇は名君でなかったことになる。

そもそも150年ぐらい前まで「大化の改新」は、全く評価されていなかった事件だ。明治維新が近づいてきた時「天皇に政治を返す」ための「政治的理由」を強調する、歴史的な理屈として見つけ出されたのではないか、と私は考えている。もし興味があったら「伊達千尋」という人物を、検索してみよう。彼は、明治政府の重鎮で名外務大臣だった陸奥宗光の父親である。ちなみに陸奥宗光は江戸時代末期に坂本龍馬の下で働いていた人物でもある。