「こうたいぐうのたいふ しゅんぜい」と読む。定家の父親
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
[現代和訳]
世の中というものは逃れる道がない。山奥に逃れてきたが、こんな静かな山奥でも、辛いのか、鹿が鳴いているではないか。
[作者生没年・出典]
生年 1114年 没年1204年 千載集 巻十七 雑中1148
[人物紹介と歴史的背景]
作者は、定家の父親 藤原俊成。勅撰和歌集に合計414首入選。
和歌の第1人者で、「千載集」の撰者でもある。1140年 俊成27才の時の歌で、当時としても十分に若者なのに、えらく暗い歌なのは、風雲急を告げつつある、都の情勢だったのだろう。
保元の乱への予感が世の中を暗くしていた
77番で紹介した崇徳院が天皇位についていらしたが、父 鳥羽上皇が「治天の君=政治の担当責任者」として采配を振るい、崇徳院の不満がたまるのは誰が見ても明らかだったからだ。その予感通り1156年には保元の乱が起きる。そこで、この歌の「鹿ぞ鳴くなる」の部分は「しかぞ無くなる」で「確かなものがなくなっている」と受け取る説もある。
俊成は歌人であったが、「平家物語」にも登場している。「俊成忠度(しゅんぜいただのり)」の段だ。平清盛の弟 忠度(ただのり)は文武両道の人で、俊成を師と仰ぎ、歌才もあった。1183年に平家一門都落ちの際、忠度は俊成を訪問し、戦が終われば中断している勅撰和歌集の編集も再開されるでしょう、それにふさわしいとお考えになるものがあれば入れてください、そうなれば死んでも嬉しいし、あの世から先生をお守りする者になります、と告げ、巻物を置いて立ち去った。俊成70才の時だった。
やはり忠度は戦死してしまった
翌年に忠度は一ノ谷の戦いで戦死、忠度は「朝敵=朝廷に敵するもの」だったから、俊成は「詠み人知らず」として彼の歌「さざ波や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山桜かな」を「千載集」に入れた。
俊成と忠度のエピソードを題材にした能が「俊成忠度」だ。俊成の前に霊になって現れた忠度が、詠み人知らずなのが悔しいというので、俊成は理由を述べ、諭す。いったんは納得した忠度だが、地獄の修羅道の戦いに引き込まれ、魂を失いそうになる。しかし梵天が彼の歌「さざ波や~」に感応し、責め苦を許してくれたので、忠度は朝日とともに成仏する、という筋だ。俊成が90才まで長生きしたのは、あの世から忠度の加護があったからだ、と言われている。古今集の仮名序にある「…目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせる…は歌なり」を基調にしているのがわかるだろう。
道因法師も夢の中に出てきた
鴨長明の「無名抄」によれば、「千載集」に82番で紹介した「迷惑系変人」の道因法師の歌を、俊成が「人柄はともかく、歌には熱心な人だったから」の理由で18首入れてくれたことに、道因が夢に出てきて礼を言ってきた、そこでもう2首追加したとかなど、幽霊にまでクレームをつけられたり、感謝されたりするぐらい、俊成が「権威」であったことがわかる。同時に、当時の人々の和歌に対する「思い入れ」がわかる話でもある。