凡河内躬恒

心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花

[現代和訳]
無造作に折ろうとすれば、果たして折れるだろうか。一面に降りた初霜の白さに、いずれが霜か白菊の花か見分けもつかないほどなのに。

[作者生没年・出典]
生没年ともに不明 古今集 巻五 秋下 277 古今集の撰者の一人で三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
凡河内躬恒は「おうしこうちのみつね」と読む。古代において「凡河内氏」は摂津=今の大阪府北部と兵庫県南東部、河内と和泉=共に大阪の南部で隆盛を誇った豪族だったが、奈良・平安時代になると、弱小一族のうちの一つになってしまった。

影が薄いのが残念

さらに「古今和歌集の編者」と言われたら「紀貫之!」と名が挙がるのはまず間違いがない。しかし他にも3人いる。それはこの歌の作者と、30番の壬生忠岑、33番の紀友則だ。なぜか「カルテット=4人組」とか「トリオ=3人組」になると、「フロント」とか「センター」の1人目とか2人目はよく覚えられているのに、3人目とか4人目は例外なく影が薄くなる。これは現代の芸能人たちを見ていてもわかるだろう。そのジンクスに漏れていないのが残念と言えば残念なので、これを機会に覚えておこう。

歌自体は、古今集時代はこのように主観的で、技巧に走る傾向が強い歌が多い。明治の詩人・正岡子規は「貫之は下手な歌詠みで…」と古今集の技巧的な作りが嫌いだったのは有名で、特にこの凡河内躬恒の歌は「殺風景で…まじめらしく人を欺き…一文半の値打もない」とけなしている。しかしやり方が違っているだけだから、少し言い過ぎではないかと思う。ちなみに「菊」が歌の題材になっているのは珍しい。たいてい和歌の中で「花」は多数が桜で、少数が梅だからだ。

壬生忠岑 (みぶのただみね)

有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし

[現代和訳]
あなたと別れたあの時も、有明の月が残っていましたが、別れの時のあなたもつれないもので、今でも有明の月がかかる夜明けほどつらいものはありません。

[作者生没年・出典]
生没年ともに不明 古今集 巻十三 恋三 625 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
歌の才能はあったが、本人はあまり出世しなかった。41番「恋すてふ~」で有名な壬生忠見の父親にあたる。でもこの百人一首の撰者かつ新古今集の撰者の藤原定家がこのような歌が一生に一句でも作れたら本望だ」と絶賛している歌で、98番で紹介する 藤原家隆も同意見だ。

家隆は定家のライバルでもあり、新古今集の共同撰者でもある。この歌の「有明のつれなく見えし」の解釈をめぐっては①後朝の別れの時に月がつれなく見えたという説と、②女も月もつれなかったという2説が対立している。ここでは②の説で考えている。

坂上是則 (さかのうえのこれのり)

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

[現代和訳]
夜が明ける頃、あたりを見ると、まるで有明の月が照らしているのかと思うほどに、吉野の里には白雪が降り積もっているではないか。

[作者生没年・出典]
生没年ともに不明 古今集 巻六 冬 332 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
「吉野の里」とは奈良県の吉野郡吉野のこと。古い時代の天皇の別荘(離宮という)があった風光明媚な所だ。また吉野山は修行のために入る山と考えられている。

なぜか奈良県がお好き

藤原氏以外の他の氏族は、奈良に来ると「あのころは良かったなあ」という歌を詠む。それだけ、桓武天皇が遷都した、京都・平安京は居心地が悪かったようだ。平安時代の歌人たちは、坂上是則について、この歌より少し前に古今集に収録されている

み吉野の 山の白雪つもるらし 故里寒く なりまさるなり (冬325)

の方が秀歌だと評価している。藤原定家は少し見方が違ったのだろうか。

また30番で紹介した壬生忠岑も吉野を題材に

み吉野の 山の白雪踏み分けて 入りにし人の 訪れもせぬ

と同じ古今集 冬327で詠んでいる。