きっかけをもってきたのは、やはり塾生だった

15年ほど前にの話だが、順調に成績が伸びてきたので、関西学院大学の高等部を受けさせたいのですが、どうでしょうか? 大学受験も一気に済みますし、と親・保護者の方から改めて要請があった。「私にとってのキセキの世代」と同じく、ぼや~としている私を駆り立てるのは常に生徒である。

彼は(当時は男子しか入学できなかった。現在は共学になっている)理系向きだったから、数学より問題は国語で、現代文はそこそこだが、古典文が全くと言っていいほど、だめだった。これはまずいな~、と私は懸念し、40点の配点を全く無駄にするのは、受験戦略上ありえないし、数学で絶対に点数が取れる保証はどこにもない、せめて半分だけでも欲しいところです、と進言したら、費用・時間、共にすべてお任せでご自由にお願いします、となった。つまり「用兵権のフリーハンド」を手に入れたことになる。こうなればやるしかない。

実はその前から始まってはいた

私は不意打ちを食らった、のではなかった。その当時の10年ぐらい前からエラソーに「最近出版される本は面白くないな~」と食傷気味になっていた。どこの評論家だろうかと、今思えば恥ずかしい。そこで「古典文でも読んでやるか」の軽いノリで、まずは一番身近な「竹取物語」の岩波文庫を買ってきて、読み始めていたのだ。

百人一首の紹介の冒頭で白状しているが、私は高校時代は古典・漢文のまじめな生徒ではなかったし、もちろん、点数もあまり良くなかった。

でも本だけは、まだ読んでいる方で、歴史小説では海音寺潮五郎や井上靖、純文学系では芥川龍之介、川端康成など一通りは読んでいた。今は本を読まない高校生や大学生が多いのだが、私の若いころは「読んでいて当たり前、知っていないと恥ずかしい」、教養として当然の風潮だったことが、今ではありがたいと思っている。

化け物はどの時代にもいる

そしてこれらの作家たちが、古今東西の古典に精通していることも知っていた。芥川龍之介や川端康成の若い時に、実際に親交のあった作家が、「彼らの知識は我々凡人とは桁が違い、ありとあらゆる古典本を読み尽くし、内容も自分のものにしていた。そして『オレがもっと面白い話を書いてやる』の動機で始めたのだ。また実際そのような発言を、芥川からも、川端からも聞いたことがある」と、雑誌のインタビューに答えていたのを覚えていたからだ。

その作家自身も古典に精通し、歴史小説を書き、たぶん日本で初めてだろうが、奥州藤原氏の祖である「藤原経清」を取り上げたことで、高名になり、当時はもう老境に入っていたが、実に楽しそうに、そして尊敬心を込めて2人の想い出を語っていたのが、すごく印象に残っている。この人は、今東光(こんとうこう)という立派な御坊様ですが、「毒舌和尚」の異名を持っている。

十分この作家さんでもすごいのだが、彼が「我々凡人とは違って、芥川や川端の知識のすごさは半端ではない」って、どれだけのことを言うのか、ホント想像もつかなかった。バケモノは、いるところには、いるんですな。

しかし人に、特に若者には無理に勧めない

では現代の若者にも読書を薦めるべきだ、とお思いであろうが、私は「無理強いしても意味がないのでは」と、考えている。そもそも読書は、好きで読まなければ続かない。また強制されては面白くないし、読書が嫌いになってしまうかもしれない。「角を矯めて牛を殺す」になっては意味がない。また「おせっかい」と取られるのも、困ったものだ。

さらにはライプニッツの予定調和説ではないが、「必要な本は、必要な時が来れば、自然に目の前に現れる」という、妙な信念を私が持っていることもある。ただし準備活動をしている人だけが、その本に出会えるのだ。何の準備もしてない人には、僥倖は訪れないのは自然の理である。

まずは環境整備。文を読んで理解できるような、基礎的な読解能力を身に付け、小さいことに気が付けるように子供を躾けること。次に、本を読め、という親・保護者の方自身が、読書好きになること。最後に、子供当人の嗜好に合ったものを選んでやること。たとえそれが親・保護者には理解不可能なものでも、あるいはお下品なものでも否定してはいけない。

民主主義は、民主主義を否定する考えまでも受け入れて、初めて民主主義になれるようなものだ。

まだ続く。