大中臣能宣朝臣 (おおなかとみのよしのぶ あそん)

みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ

[現代和訳]
衛士のかがり火は、夜は赤々と燃えているが、昼間は消える。まるでわたしの恋の苦しみのようで、昼は良いのだが、夜になると心が燃えるように苦しくて堪らないぐらいだ。

[作者生没年・出典]
生年921年 没年991年 詞花集 巻七 恋上 224 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
61番で紹介予定の伊勢大輔の祖父で、42番の清原元輔で紹介した「後撰集の撰者 梨壺の5人」のうちの一人。中臣氏は神祇官と呼ばれる、祭祀や儀式を司る役職だ。

ただしこの歌は、別の歌集に似た歌が作者不明で収録され、彼自身の歌集には収録されていないから、本人のものではないのでは? と疑問視されている。それでも定家がこの歌を選んだのはまさに「用捨は心にあり」の精神だ。

藤原義孝 (ふじわらのよしたか)

君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

[現代和訳]
惜しいとは思わなかった私の命ですが、こうしてあなたと会うことができた今は、ずっといっしょにいたいので、かえって命が惜しくなってしまいました。

[作者生没年・出典]
生年954年 没年974年 後拾遺集 巻十二 恋二 669 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
45番で紹介した謙徳公 藤原伊尹の息子で、イケメンだったが、堅物で、女性にも丁寧だったし、仕事中でもお経をつぶやいていた。仕事に集中しろよ、とツッコミたくなるが罰があたりそうだ。しかし21才で早世した。

その生涯を知ると、なんとなくこの歌は自分の寿命を知っていたのか、と勘繰りたくなる。早く出家したかったが、子供のことが心配だったので、果たせなかったと記録にある。

息子の行成は書で有名

藤孝については以上で、その息子 藤原行成(「ふじわらのゆきなり」と読む)は百人一首に歌は入っていないが、人間関係中では、意外なキィーパーソンなので、少し紹介しておく。

父 義孝が早死にしたので、青年の時は苦労したが、一条天皇の御世に、有能な官僚=能吏の頭角を現し、時の実力者の藤原道長に重用され、道長政権を55番で紹介する藤原公任とともに、支えた人物だ。

実務家で宮中の習慣や慣例=有職故実(「ゆうそくこじつ」と読む)をまとめた本も作成した。ただし残念ながらまるまると残っているのではなく、一部が確認されるだけだ。

行成は奈良時代の「三筆=空海、嵯峨天皇、橘逸勢(「たちばなのはやなり」と読む)」に匹敵する、平安時代の書道家で「三蹟(「さんせき」と読む)」の一人だ。この時は「こうぜい」と呼ぶ。他の二人は11番の小野篁で紹介した彼の孫 小野道風(おののとうふう)と、藤原佐理(ふわじらのさり)だ。

この3人によって「和風の書き方」が確立された、と歴史的・文化的には言われている。しかし行成の遺した日記の中で「小野道風に夢で会い、技を伝授された」とあるぐらい、小野道風には心酔していた。