藤原実方朝臣 (ふじわらのさねかた あそん)

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな

[現代和訳]
あなたに告白できないでいるために、かえって伊吹山のも草が燃えるように、私の思いも激しく燃えていますが、それをあなたはご存じないでしょう。

[作者生没年・出典]
生年不明 没年998年 後拾遺集 巻十一 恋一 612 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
インテリのイケメンで、色好みだった実方は清少納言とも友人だった。あくまで「撰集抄」の紹介によるが、彼は花見の時に、急に雨が降ってきたが、わざとずぶぬれになって、

桜狩 雨は降り来ぬ 同じくは 濡るとも 花の影に宿らん

と、実方は詠んだ。ちょっとパーフォーマンスが過ぎている。

行成と喧嘩したと言われている

その彼が転落するきっかけを作ったと言われている人が、50番で紹介した藤原義孝の息子 藤原行成(ゆきなり)だった。

行成は「三蹟」と呼ばれる書道家で有名たが、実方が今の歌を詠んだ時の状況を聞いて、皆は「やるなあ」と感心したが、行成は「歌は良いが、彼は馬鹿だ」と言ったのを後で聞いて、実方は腹を立てた。

そして宮中の廊下で出会った時に2人は口論になり、かっとした藤原実方が行成の冠を奪い、庭に放り投げた。行成は怒ることもなく静かに家来を呼び、冠を庭から取ってこさせ「正気を失った貴公子だな」と嘆いた。

それを見ていた一条天皇が、行成の冷静さを褒めて昇進させ、対して実方には「歌枕を見て参れ」と東北に左遷してしまう事件が起きた。

行成との因縁は架空か?

ただしこの「事件」は作り話で、史料には見当たらないと、研究者は言う。実方の曽祖父は26番で紹介した貞信公 忠平で、父が死亡した後、彼は伯父の養子になり、母が道長の正妻の姉妹ということもあって、順調にキャリアを積んでいた。

しかしその伯父の娘が、68番で紹介予定の三条院の奥さんになって、後に小一条院を生んでいる。三条院と藤原道長は不仲になっていたのは有名だ。また地方でこの時期から争乱が大きくなっていた。

地方赴任は、単純な「実力テスト」だったのかもしれない

だから「ちょうどいい、政治力を観察してやる」という感じで、摂関家主流から「試練」で地方に赴任になったのだろう、と多くの研究は考えているし、私も賛成する。もし中央での政権運営に欠かせない人物なら、最初から地方には飛ばさないし、飛ばしてもすぐに呼び戻す。

現に、昔の事だが、11番で紹介した小野篁は、2年ほどで配流先の隠岐から呼び戻されている。篁に至っては、「勅勘(嵯峨天皇からの縁切り)」を受けた身であったし、配流の原因になった「船の乗り換え」事件では、当時の藤原氏主流のリーダーである、藤原冬嗣(藤原良房の実父)のメンツも潰したぐらいであったのに、だ。

以上のような推測と、また「事件」のもう一方の当事者の行成は、伊尹の孫だから、能力はともかく、やはり「主流」からは外れているので、「悪役」に仕立て上げられたと考える方が、理屈には合う。

しかし地方で客死する

実方は3年ほど東北にいたが、都を追われるように地方に飛ばされ、帰らぬまま、その地で死ぬというまさに「貴種流離譚」を地で行くような彼の人生に、都の女性たちは「第2の在原業平様だわ」と思った。

彼は今昔物語集では所領争いを仲裁できなかったことが載っているので、古文が好きな人なら「知り合い」みたいなものだ。この時代から、もはや武士の勢力を無視できない時代になってきたことは明らかだろう。また実方は「敬うべきその地の神を、無視したために、馬に蹴られて死んだ」という言い伝えが残っているが、「地方の人間とトラブルになって、結果死に至った」と言うことを示唆していると、考えたい。

86番で紹介予定の西行法師は、実方の墓を訪れているし、その西行の旅行跡を追って、江戸時代には松尾芭蕉が歩いている。実方も「歌聖」扱いされているのだ。

藤原道信朝臣 (ふじわらみちのぶ あそん)は夭折した詩人

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな

[現代和訳]
夜が明けれるとまた日が暮れ、会えると分かってはいても、別れる夜明けは、恨めしいです。

[作者生没年・出典]
生年972年 没年994年 後拾遺集 巻十二 恋二 672 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
例の「後朝の歌」で、若者らしく、単純でわかりやすい歌だ。この歌を詠んだ時、雪が降っていたという話がある。しかし彼は年寄りにはならずに23才で死んでいる。

それでも勅撰和歌集に49首も入選しているので、長生きしていれば、もっと優れた歌を作ったかもしれないので残念だ。

次の53番中で紹介する藤原兼家の弟が父親だが、その父親が早逝したので、兼家の養子になる。だから藤原道長とは事実上の兄弟にあたる。また51番で紹介した藤原実方とも仲が良かった。

即興の詩人でもあり、宮中に山吹の花を持ち込んで、挑戦的に上の句を詠み、誰も答えられないでいると、下の句はたまたまそこに居合わせた、61番で紹介する伊勢大輔が答えた、というエピソードは有名だ。