小野小町 は美人の代名詞

花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに

[現代和訳]
桜の色もすっかり色あせたように、私がなんとかこの世を渡っている間に、私の容色も色あせてしまいました。

[作者生没年・出典]
生没年も本名も全く不明。六歌仙と三十六歌仙の一人。 古今集 巻二 春下 113

[人物紹介と歴史的背景]
この人が、実在した平安前期の歌人なのは事実だが、天皇の更衣=着物の着かえやその管理、式典に応じて衣服の種類を選んだりする役を務めていたが、後に宮中を追放され、知らぬ土地で窮死した、という言い伝えだけが残り、その生涯も不明だ。

優れた歌人だったのは確実な女性

「花」と言えば平安朝の古文の世界では普通は桜で、それ以前、奈良時代までは梅だった。ちなみに「山」と言えば特に断りのない限り、比叡山のことだ。

さて現代でも美人さんを「○○小町」と呼ぶぐらい、日本の美人の代表がこの人だ。後ろ姿でこの人が描かれることが多いのは、美人すぎて絵にできないから、という理由だ。でも単なる手抜きかもしれない。

古今集の「仮名序」の中でも「小野小町は古の衣通姫(そとおしひめ・そとおりひめ)の流なり。あはれなるやうにて、つよからず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり。〔現代和訳〕小野小町は古代の衣通姫の流れをくむ歌人だ。歌の心はしみじみと身にしむ感じだが、言葉は強くない。例えるなら美人だが、病気で悩んでいるようなものだ」と紀貫之には評されている。

「衣通姫」とは、日本書紀や古事記の記述にあるのもので「大変な美人で、その美しさが衣を通して輝いている」の意味で、英語なら knock-out beauty だ。

歌の「威力」が大きい、つまり「言霊」が強かった人

だが、天皇の命令で、日照りの年に雨乞いをして成功し「雨乞い小町」と呼ばれるとか、「深草少将百夜通(ふかくさのしょうしょうももよかよい)」では気の強い女性で、結局少将を振ったとかなど、数多くの伝説があり、各地に「小町塚」が建てられ、その数奇な運命を題材に仏教説話にもなり、特に能楽では「七小町」と呼ばれるものが完成していて、葛飾北斎の絵にも描かれている。

古今集に残されている歌から割合に有名なものをあげると、

思ひつつ寝ればや 人の見えつらん 夢と知りせば さめざらましものを
うたた寝に 恋しき人を見てしより 夢てふものは 頼めそめてき
天つ風 雲吹き払え 久方の 月のかくるる 道まどはなん

特に3つめは政治的なもので、天皇の治世を揺るがすものを、吹き払うため詠んだ「祈りの歌」だ。当時は「うまい歌が詠める」ことは、「言霊」を呼び起し「鬼神を目覚めさせる超能力」があると思われていたため、敵対勢力に危険視されて、追放されたのかもしれない。

蝉丸はギタリストだった

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関

[現代和訳]
これがあの有名な、下る人も都へ上る人も、ここで別れて出会い、知っている人も知らない人も、またここで出会うという逢坂の関なのだなあ。

[作者生没年・出典]
生没年も本名も全く不明。六歌仙と三十六歌仙の一人。後撰集 巻十五 雑一 1090

[人物紹介と歴史的背景]
彼の歌は他の和歌集に4首も収録されているので、実在の人物のようだが、やはり「経歴・係累ともに不明」で、盲目の琵琶の名手との説や、醍醐天皇の第四皇子という伝説もある。

関所の近くにすんでいた?

逢坂の関とは今の滋賀県と京都府の県境にあった関所で都から東国への出入り口だった。歌の説明には「逢坂の関に庵室を作りて住み侍けるに、行きかふ人を見て」とあるので、近所に住んでいたようだ。

つまり人がたくさん集まる場所ではなかったから、いわゆる「隠者」的な生活を送り、内裏や貴族などの要求に従って、宮中の宴などで、芸を披露していたと思われる。