「ほうしょうじ にゅうどう さきのかんぱく だじょうだいじん」と読む

わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波

[現代和訳]
大海原に船を漕ぎ出して、遠くを見ると、雲と見わけがつかないような沖の白波が立っているのが見える。大変雄大できれいな眺めだ。

[作者生没年・出典]
生年 1097年 没年1164年 詞花集 巻十 雑下 380

[人物紹介と歴史的背景]
この人の本名は藤原忠通(ふじわらのただみち)で、当時の摂関家の長男。「忠通」という名前は73番の大江匡房がつけてくれたものだ。

忠通自身も温厚で、歌がうまくて勅撰和歌集に69首入選している。また書道も上手で、現在の「法性寺流」の開祖だと認定されている、「平安貴族の鑑(かがみ)」みたいな人だ。歌自体は、次の77番で紹介する崇徳院に「『海上遠望=海の上を遠く見ている』と言う題で、歌を作りなさい」、と言われて作った歌。

すんなり「氏の長者」になれたのではない

忠通には異母兄弟の頼長がいた。この弟はめちゃくちゃ頭が良くて、父親のお気に入りだったからだ。頼長は1000巻もある中国の当時の百科事典を暗記しようとしたぐらいで、自分の才能には自信を持っていて、成長して宮中で政治を取り仕切るようになると、人からは「悪佐府(あくさふ)」と呼ばれた。

この場合の「悪」は「悪い」の意味ではなく、「すごく優れている」の意味。現代でも「悪賢い」とかいうのと同じだ。

兄とは違って、頼長は、和歌は「自分には才能がないから無駄なものだ」とし、書道にも興味がなかった。もしかすると、下手を笑われるのが嫌だったのかもしれない。中学生にもそういう人は多い。

それでも貴族社会に生きる者として、下手だからこそやるべきだったと、私なんかは思う。その下手さが愛嬌になって、他人からもっと愛されていたら、彼の人生も変わっていただろう。

プライドが高すぎるのは、ある意味幼稚だし、でも頭は良いしで、ゲーテ曰く、「理性しか持たない人は狂人である」にそのままあてはまりそうだ。

歌合などには出席も呼ばれもしないから、付き合いが狭くなって「情報弱者」にもなり、結果視野狭窄にも陥る。こういう人が政治をやると恐怖政治になってしまう。事実そうなっていき、最初は彼に期待した人たちも、支持を取り下げていった。「自分は正しい」と思っている人が行き詰る、「理想と現実が乖離」しているとき、無理やりでも、現状を打破しようとする。

ましてや摂関家の跡取り問題は、当時の日本の国権を握れるかどうかの、大一番の勝負で、現在で言うなら、自民党の総裁選挙であり、同時に総理大臣への道だ。

そして有名な「保元の乱」へ

兄の忠通にも責任はある。彼にはなかなか男児が生まれなかった。だから一時、弟の頼長を養子にしていた。でも男児が生まれると、養子縁組を解消してしまったことも、もつれる原因の一つだった。

また「頭が切れすぎる弟」の兄としては、譲歩するべきところと、助言したり補佐するべきところは、キチンとやるべきだった。

しかし、忠通は、皇室主流の後白河天皇に協力し、「悪佐府」弟 頼長は、皇室で不満を持つ、77番で紹介予定の崇徳院に協力して、摂関家の対面をズタズタにした「保元の乱」の幕開けとなるのだ。保元の乱 関係者の系図はこちら。まさに「兄弟は他人の始まり」だ。

26番の貞信公 藤原忠平が藤原氏全盛の「摂関政治」の幕を開け、この忠通が保元の乱を防げず、藤原氏の栄華の時代を閉ざす、歴史的な位置に立っている。どちらも「忠」の字があるのは偶然だろうか。

ただし忠通自身は、1160年に起きる「平治の乱」の時も生き残り、彼の直系の子孫が「近衛」「鷹司」「一条」「二条」「九条」の「五摂家」を名乗る主流を占めた。

結果から考えると、国家の危機を救う大政治家ではなかったが、自分の身内は生き残れる道筋は作れた「中ぐらい」の政治家かもしれない。