読書感想文が自由課題になってしまった

最近公立の中学校では読書感想文は自由課題になり、ますます本を読む人が減っていくだろう。このままではそうなるだろうな、と30年ぐらいずっと思っていた通りになってしまった。残念だが、教育する側の努力が足りなかったのだろう。先生の側が読書をしているのか?そもそもそのような環境を構築する努力を、教育行政の担当者はやっているのか?はなはだ疑問だ。

しかしものは考えようだ。私の学生時代は、誰でもある程度以上の量を読んでいたので、そこから抜け出すには並みでない努力が必要だった。今はそんなことはないから、「本を読んで理解できる人」にちょっとなるだけで十分優位な立場に立てるので、ある意味チャンスでもある。

そのためにはやはり古典文学・日本と世界の名作文学をお勧めする。ただし私自身、学校の国語の授業を面白いと思ったことなど1回もない。しかし独学で読んでみれば、古文でも漢文でも、面白い場面・教訓を得られる場面など多々あり、読む耽っている自分に気が付いたぐらいだ。なんでこういうシーンを教科書に取り入れずに、しょーもない場面ばかりを教科書で紹介していたのか、不思議に思ったぐらいだ(山月記はちょっと別物だが、同著者の作品がほとんどないので除外する。不完全燃焼の人は井上靖の「狼災記」を読もう。氏の「西域シリーズ」は中々良いですよ)。

そんなこんなで、古典教育や現代文読解を指導する側が怠慢だったために、国語は実学の文読解に取って代わられた。つまりは自業自得で、同情の余地はない。一度、やり直す時期に来ていることを自覚し、実行する以外に、救済の道はないだろう。

要するに復讐劇なのだが

さて私のお勧めの第1番の古典は、「モンテ・クリスト伯」だ。これに接したのは小学生の時だった。学校の図書館で「巌窟王」という厳めしい名前の古い本を手に取った時、まさかそれが生涯の愛読書になるとは思えなかった。

でも一気に読み終えた記憶はある。それだけ衝撃的だった。半端未熟者ながらフランス文学ってすごいな~とだけは感じた。小学校で読んだのはジュニア向けだから1冊で完結だったと思う。そして高校3年生になって部活を引退して、何か目標を見失っていた時に、また学校の図書室で再会した。

でもそれは岩波文庫という文庫本で7冊もあった。うへ~と思ったが、手に取って読み始めると、高校生なりに成長していたのか、また違った面白さで迫ってきた。

復讐の話なので、悪い奴はすべて滅びるから、死者続出だ。しかしなぜか最後は爽やかだった。主人公が船に乗って海上に去っていくからか?いや違う、なぜなんだろう? 当時はわからなかった。なんとか大学に入って、そのまま塾の先生になって、忙しく、この本のことは忘れていた。そして十数年前にまた再会した。

最近の流行の本は好きではない。嫌いというよりは、ついていけないという方が正しい。きっと私が年老いつつあるからだろう。その代わり中国古典などずっと好きなままだ。

そんな私でも「モンテクリスト伯」は、なぜかひまがあると読み返している。そのたびに発見があるから不思議だ。「罪と罰」もそうだ。すごく饒舌なのに、飽きがこない。この年になって「古典文学の面白さ」にやっと気が付いた。不明の限りこの上ない。

「モンテ・クリスト伯」が爽やかな理由

そして、この前、やっと「爽やか」な理由に気がついた。主人公は確かに自分を陥れた人たちに復讐を成し遂げた。しかし彼らの子孫には手を出さなかった。いやそれどころか、彼らの子孫が今後も生きていけるように取り計らう「真の父親としての慈愛」を見せているからだ。

バカな親である復讐の対象者は、悲惨な死を遂げ、あるいは発狂して自失してしまった。現代のシナリオだと子供にまで影響を及ぼす話が多そうだが、モンテクリスト伯=エドモン・ダンテスはそんな卑劣なことはしない。残念ながら、確かにビルフォールの幼い息子は助けられなかったが、前妻との間にできたビルフォールの娘が継母に毒殺されかかると、自分が、息子のように思っているマクシミリアンのためもあって、彼女を寸前で助け、さらには仮死状態にして家から脱出させ、保護した。

首謀者フェルナンの息子が父親の自殺の後、母の姓を名乗り、将校としてアフリカに旅立つ際には、彼の母であるかつての婚約者メルセデスを見守り、家まで与え、彼の出発に間に合うようにマルセイユまで駆けつけた。破産の罠にかかったダングラールの娘が家出をする時には、友人までの分の旅券を与えて、イタリアに逃したりしている。

格好良すぎる。仏教的に言うなら、復讐の対象となった彼らの菩提を弔うための基礎は残したのだ。キリスト教者も、芯の通った人がいる。そこに爽やかさを感じたのだ。 これからそれを少し筋を紹介しながら語っていこうと思う。もしかしたら誰かが、「自分の意志」で読書感想文を書くかもしれないから。

続く。