「補給失くして勝利なし」は基本中の基本

そもそも1939年の段階で、中学の歴史教科書にも載っている有名な「独ソ不可侵条約(「日ソ中立条約」と混同して、「独ソ中立条約」とか「日ソ不可侵条約」などと間違えて覚えている受験生が多い)」が結ばれて、ドイツとソ連=ロシアは色々と通商関係を継続していた。もちろんキツネとタヌキの化かしあいで、スパイは暗躍していた。なのにレールの幅が違うことは知らなかった、というのは笑えない冗談ではないか?「情報を正確に収集する」のは、勉強・学習においても同じだ。

同時に「補給なくして勝利なし」は大戦略であり、鉄則だ。重要な事項を学習したら、レベル分けした問題を次々と渡して、理解を深め、最後にはいつでも脳みそから取り出せるぐらいまで定着させるのが、塾や学習指導者の「見えない」役割だ。

「自分の名前を忘れるやつはいない」と同じレベルまで定義・定理・解法を仕込むこと、それが勉強するときの「補給作戦の目標」であり、もちろん「補給ルートの確保と方法」はとっくの昔に確立していなければならない。この場合の「補給ルートの確保と方法」はあらかじめ山のように問題を準備しておくことと、それをすみやかに提出できるように、見やすいプリントや冊子に仕上げておくことだ。極端な話、「補給物資とルート」が確立できていない分野は、いくら説明ができる能力があっても、手を出してはならないのだ。最終的な敗北は必至だからだ。

こう考えると、独ソ戦では、ドイツ軍は「落ちるべくして落ちた受験生」みたいだな、と思った。

首都モスクワの攻略を後回しにした

モスクワ攻略は最初の計画には無かった、これは全く知らない事実だったが「ソ連の首都 モスクワをどうするか=攻略するのか、放っておくのか」についてはドイツ軍の首脳部は、あやふやなまま、はっきりとした取り決めをしないまま独ソ戦は始まったのだった。おいおい、である。

もちろん一応の取り決めはあった。今回の作戦の主目標はバルト海の制海権を獲ることと、少し南にあるカスピ海に近い油田などの確保だった。それらができて余力があれば…ということだった。

これは素人目には大変疑問だ。
すべての指令は首都 モスクワから出ているし、スターリンもそこにいる。特にソ連=ロシアは、首都モスクワに線路のすべてが集まり、そこからまた地方に行く。蜘蛛の巣をイメージするとわかりやすい。豊臣秀吉の時代に「大阪に米が集まり、相場が決まって、全国に散らばる」ようなものだ。それなら一直線にモスクワを目指すべきだった。

現にドイツ軍はかなりの程度の戦力を消耗してから、セバストポリ要塞攻略成功以外は、どの制圧目標もどっちつかずの状態に陥って、初めてモスクワ陥落を目指したが、時すでに遅し、すべてが中途半端に終わり、多くの人命と武器を失って、その出血が止まらないまま敗戦を迎える。幸運の女神には後ろ髪がない、という良い例だ。

最高指揮官の心に傷を与えるのが効果的

そして首都を攻略する、というのは指揮官をいらだたせるには一番いい方法だ。指揮官の心に傷をつけることができればさらに言うことはない。後になって効いてくるものだ。

有名なものでは、1942年(昭和17年)4月18日にアメリカ軍が陸軍の爆撃機を使って、日本本土に対する初めての東京空襲を行った「ドゥリトル爆撃」がある。損害は大したことはなかったが、これに衝撃を受けた海軍の連合艦隊司令長官・山本五十六が、無理矢理にミッドウェー海戦を計画し、大敗北を喫した例もある。ほんのちょっとしたことで、様相が変わってしまうのが戦争だ。

まだ続く。