餓死寸前で錯乱するダングラール

後10万フランしか残りはない、という段階になって、餓死寸前のダングラールは夢を見た。それはある老人が床に臥せり、餓死をしていく姿だった。読者にはそれがエドモン・ダンテスの父親と言うことがわかるが、ダングラールはそんな光景を見たことがないはずなので、神の見せた奇跡ということになるかもしれない。

あるいは風の噂に伝え聞き、忘れようと思って忘れてしまったはずの、エドモン・ダンテスの父親の最期を、今になって思い出したのかもしれない。どちらにして急性の低栄養性失調で、ダングラールは錯乱寸前となっていた。

「デジャヴ=既視感」というものにも、2種類あると私は考えている。1つは純粋に奇跡だ。たぶんあまりないだろう。もう1つは本人は意識では忘れてしまっている風景で、実は意識下に存在している見たことのある風景を思い出している場合だ。人間の脳は変わった器官で、忘れていても、どこかに記憶がしまわれているから、高確率でありそうだ。よって私としては、後者の見解をダングラールに当てはめたい。

どちらにしても、ついに金の亡者ダングラールは、神の前に膝を屈した。そして牢の中で倒れながらも、ルイジ・バンパを呼ぶように見張り役の山賊に頼み、すぐにやって来た彼にこう言った。

正体を明かす伯爵=エドモン・ダンテス

「この残りの金を全部あげますから、私をこのままここで生かしておいてください!」
「もうお金はいらないとおっしゃるのですね」
「ええ、もう金はいらない。私は生きていたいのです!」
「自分が罪を犯し、その罪を悔いているのですね」
「ええ、私は罪人です。悔い改めます、ですからどうぞ…」

「それは本心からですな」
ルイジ・バンパとは違った、もっと落ち着いていて、もっと悲しみに満ちた声が降ってきた。その人はバンパの後ろにいて、フードを被り、顔は見えなかった。バンパが退き、その人は前に出てきた。
「ええ、本心からです」
「よろしい。あなたを許しましょう」
「あなたは…」
「私は、あなたたちがした嘘の告発で14年間投獄され、その間に父親を亡くし、許嫁を攫われ、青春と人生を奪われた者です」
「…!」
その人はフードを取った。モンテ・クリスト伯の顔が現れた。
「私はエドモン・ダンテスです」

あ!と、ダングラールは驚き、心臓が止まりそうになり、顔を床に伏せた。
「私を陥れた者たちは、神の怒りをかい、1人は殺され、1人は発狂し、1人は自殺しました。あなたはまだ運が良い。そして今、私はあなたを許して、私も許されたいのです
ダングラールは言葉も出ない。

解放されるダングラール、しかし…

「さあ、あなたは自由です。今晩は私の御馳走です。好きなだけお飲みなさい。お食べなさい。あなたがくすねた100万フランのお金は、わからないように戻して債権者に返しておきました。バンパ、食事が済んだら、どこか連れていって、自由にしておあげなさい」
そういうとモンテ・クリスト伯はまたフードを被って、ルイジ・バンパの巣の中を歩き去っていった。その人影に向かって山賊たちは一斉にお辞儀をするのだった。

食事が済んで、明け方、ダングラールは馬車で連れていかれ、どこかの郊外の川のそばに捨てられた。山賊たちが去っていっても、しばらく放心状態だったが、のどが乾いたので、川の水を飲もうとかがみこんだ。その時、水面に写った自分の顔を見て、髪が真っ白になっているのに気が付き、またしばらく放心状態に陥ったのである。

まだしばらくは、彼は生きていくだろうが、鏡を覗いた時に髪を見るたびに、監禁と餓死寸前の恐怖を思い出すことを考えれば、これ以上の呪いはないと思われるのは、私だけだろうか?

まだ続く。でももう少しで終わりです。