清原深養父(きよはらのふかやぶ)は清少納言の曾祖父

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

[現代和訳]
夏の夜は、まだ宵のうちだと思っているのに明けてしまったが、(こんなにも早く夜明けが来れば、月はまだ空に残っているだろうが) いったい月は雲のどの辺りに宿をとっているのだろうか。

[作者生没年・出典]
生没年不明 古今集 巻三 夏 166

[人物紹介と歴史的背景]
42番の清原元輔の祖父で、62番の清少納言の曽祖父にあたる。これは夏の歌だが、古今集 冬330に

冬ながら 空より花の散り来るは 雲のあなたは 春にやあらん

という歌も入っている。かなりの名手だったが、その評価は後になってから高くなった。夏の月を題材にしている、あるいは仲間にした歌だが、ひ孫の清少納言も「夏は夜 月のころはさらなり」と枕草子で述べているのは血筋なのかもしれない。

文屋朝康 (ふんやのあさやす)

白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

[現代和訳]
白露に風がしきりに吹きつけている秋の野のさまは、まるで糸に通してとめてない玉が、美しく散り乱れているようではないか。

[作者生没年・出典]
生没年不明 後撰集 巻六 秋中308

[人物紹介と歴史的背景]
古今和歌集の成立以前の人で22番の文屋康秀の息子であり、醍醐天皇の時代の人と言うだけで、ほとんど経歴がわかっていない。勅撰和歌集にも3首入っているだけだ。百人一首にはこのように「経歴・係累不明」の人物が溢れていて、なぜ鎌倉時代の一流歌人・藤原定家が選んだのか、不明な点が多すぎる。

定家は「百人で一首」となる「曼荼羅」を歌で描いたのではないか?とする説もある。ではなぜ曼荼羅かと言うと、当時の世に噂されていた、隠岐に配流になり、そこで崩御された「後鳥羽上皇の荒ぶる魂」による「祟り」を鎮めるためだ。これについては後日、改めてまとめてみたいと考えている。

右近 (うこん)

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

[現代和訳]
あなたに忘れられる我が身のことはどうでもよいが、神にかけて私を愛してくれると誓ったあなたが、神罰を受けるのではないかと口惜しいです。

[作者生没年・出典]
生没年不明 拾遺集 巻十四 恋四870

[人物紹介と歴史的背景]
この歌は「大和物語」の中にも紹介されていて、そこでは「男に送った」とある。しかし拾遺集の中ではただ「題知らず=詠んだだけ」とあるので、送ったかどうかは不明。もしこんな歌を送られたら、男は不気味に思うだろう。歌自体は相手を心配しているように見えるが、隠れて呪っているとも受け取れるからだ。

その相手は43番で紹介する藤原敦忠だと言われている。「右近」は右近衛少将・藤原季縄の娘とだけわかっていて、本名は不明だから、父親の官名で載せたものだ。父親の季縄は900年ごろに死亡しているので、その頃の人物とだけはわかる。また妹だと言う説もある。