アルベールは決闘を申し込む

父フェルナンの過去の罪状を暴いたのが伯爵だとわかったアルベールは、憤激にかられ、オペラを観劇中の伯爵に決闘を申し込んでしまう。読者からは少し筋違いな気もする。本来ならまず父親に事の真偽を問うべきではないかと思うのだが、後先を考えない若者ならありうる展開だし、父親に尋ねるのが怖くて、怒りの矛先が別に向いてしまう、ということもよくある話だから、そこは目をつぶることにする。

伯爵は
「ではこの手袋には弾丸を包んでお返ししましょう」
と、落ち着いた様子でいっしょにいたマクシミリアンに立会人になってくれるように頼むと、悠々と最後まで劇を鑑賞した。決闘を申し込んだアルベールは、逆にあたふたした感じで退場することになる。

伯爵には思う壺だった。当時決闘は罪ではなく、あのフェルナンの息子を堂々と殺せるのだから。元々伯爵は、警戒心の薄い、お坊ちゃまでもあるアルベールから、復讐の対象者に近づいた。用兵の常道である「弱い者から責める」を地で行く、まさに「復讐の神」の手先だ。

伯爵とルイジ・バンパの関係から変な蘊蓄話

ローマでアルベールが山賊に捕まるように罠をしかけ、拉致監禁された彼を救出し、それを「手柄」にして、フェルナンことモルセール伯爵との面会にモンテクリスト伯=エドモン・ダンテスは成功する。

山賊たちは伯爵の手先だった。山賊の頭目ルイジ・バンパは若い時に伯爵に出会い、字を教えてもらい、面白い本を紹介してもらったりしていた伯師弟関係にあったからだ。この頭目は、登場する時にはいつでも読書中で、活字中毒の山賊なんて少し笑える。

映画「ダイハード1」で登場した、アラン・リックマンが演じた、テロリストのリーダーであるハンス・グル―バー も相当なインテリだった。その時評論家たちは「斬新なテロリスト像の構築だ」と褒めちぎっていたが、「犯罪者でインテリ」という設定はこの「モンテ・クリスト伯」から存在する。ちなみにアラン・リックマンは、「ハリー・ポッター」でセブルス・スネイプ役も演じている。

さらに変な蘊蓄を傾けると、「ダイ・ハード1」では複数のテロリストが登場し、名前が(コードネームだろうけど))十二使徒になっていたことと、そのリーダーの名前「ハンス・グル―バー」は、さらに皮肉を聞かせて「きよしこの夜=サイレント・ナイト」を作った人物の名前フランツ・グルーバーだったから、映画館で思わず笑ってしまい、周りからヒンシュクを買った記憶がある。

決闘前夜の伯爵とメルセデス その1

そしてアルベールとの決闘の前夜、得意のピストルを手入れしている伯爵の前にメルセデスが、召使の制止を振り切って伯爵の前に現れ、息子を殺さないでくれと、嘆願する有名なシーンが出現する。

メルセデスはその時になって初めて、伯爵をエドモンと呼び、伯爵は彼女をメルセデスと呼び、その名を呼ぶとこんな自分でも嬉しくなる、と告白する。しかしあの男とその息子をこの世から消すのは、自分だけではなく、彼に裏切られて死んでいった者たちに報いる、神に与えられた使命でもある、と宣言する。

このシーンはつらい。引き裂かれたカップルの、仮面をはぎ取った悲痛な再会だからだ。
しかも許嫁だった少女は仇の妻になり、仇の息子の母になっていた。男は復讐者になり、仇の息子を合法的に殺そうとしていて、腕前では息子の負け=死は間違いない。もちろん返す刀で、息子のかたきを取るためにやって来る父親も、返り討ちになるのも確実だ。

一石二鳥どころか、三、四鳥である。
読者にしたら「来るものがとうとう来たか」というお約束の展開には違いない。でも母親思いで、アルベールの善良さを知っている者にしたら、彼ぐらいは救ってやりたいなあ、という気にはなっている。

映画化した時に、製作者の力量が図られる場面に違いない。
ここをどう作り、現代人にわかるようなセリフを入れるか、もし日本人に見せるためのモノなら、彼らを救う「信仰心」をどう描くのか、で映画の価値は決まるだろう。

まだ続くが、あともう少しか。