伯爵やメルセデス 決闘 前夜その2
どうしても復讐を決行する、という伯爵は聖書の言葉を引用し
「父の罪は三代、四代までその子の上にかかるべし」
「神はそのような言葉を預言者に書き取らせている。人間である自分が神様以上に親切になれるわけがない」
と言う。日本にも「仏の顔も三度まで」という言葉があるので、これは日本人にも、うなづけるところだ。
そう憤る伯爵にメルセデスは
「神様は人間には届かない2つの物、『時』と『永遠』をお持ちですから」と答える。
これを聞いた伯爵はうなりをあげる。
神は永遠だから、永遠に罪を問えるが、神でない人間の身なら、復讐の対象は本人だけで我慢するべきだ、と言うことだ。
メルセデスという人物の深さがわかる。
この一言(だけではないのだが)で、伯爵はアルベールを殺すことを断念せざるを得なくなる。それだけの威力のある「クリティカル・ヒット」だった。言葉ってすごい。
そして、その言葉に打ちのめされる伯爵にも、強い信仰心がなければ、そもそも打ちのめされないだろう。共通の価値観あってのこその衝撃であることを示す。
キリスト教信者の限界
実は私はここにキリスト教者のある意味「弱さ」「限界」を見た気がした。
ただし良い意味での弱さや限界だ。
神は絶対的存在で、絶対的存在だから神だ、という大前提はひっくりかえすことができない。それぐらい人間はちっぽけなものにすぎず、神に取って変わろうとすること、考えること自体が大罪であり、やってはいけないものだ。
せいぜい「神の使い」ぐらいにしか、人間はなれない、神の前では常に謙虚であれ、普通の人間としての情を失くすな、ということだろう。
このへんがフツーの日本人にはピンとこない。
フツーというより現代の科学万能・進歩主義の日本人と言った方が良いか。
14年の牢獄生活でエドモン・ダンテスの顔は、完全に別人になっていたし、さらに10年ほど中近東や東洋で生活したことで、ヨーロッパ人の雰囲気が消え、フェルナンは全く気が付かない。しかしメルセデスはすぐにエドモン・ダンテスだと気がついた。でも口には出さず、アルベールには伯爵に気に入られるように振る舞え、と助言、あるいはお願いをする。そして伯爵には、「私たち、友達ですわね」と何度も確認するが、伯爵は「私はあなたの下僕です」とやんわり友愛を拒否をする。
メルセデスの言葉に打ち砕かれた伯爵=エドモン・ダンテスは、息子のアルベールは殺さない、しかし自分は死ぬだろうと言い、彼女がショックを受けながらも、感謝を述べて去って行った後、打ちひしがれるように、一人
「復讐を志す前に、心臓をむしり取っておくべきだった!」と唸る。
決闘にはならなかった
そして夜が明け、朝が来る。
決闘場になったある森のはずれで、伯爵とマクシミリアン、アルベールの陣営にはボーシャン他数人がいた。しかしアルベールはいない。少し経ってから、アルベールが馬に乗ってやって来た。そして少し手前で馬を降り、まっすぐに伯爵の所へ歩く。
一堂は伯爵以外は一斉に緊張したが、アルベールは、決闘を申し込んだことは間違いであったこと、そして伯爵が父モルセール伯爵を告発するきっかけになったエデを保護したこと、そしてそれらすべては正しかったことを認め、自分の無礼を謝罪し、そして許して欲しいとモンテ・クリスト伯に言った。
これまた伯爵以外は驚いて声も出ない。ひざまづくアルベールを立たせ、彼を許した伯爵ことエドモン・ダンテスは驚いたのではなく感動していた。「やはり神はおられるのだ…」と。
まだ続く。