言わずと知れた源氏物語の作者
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
[現代和訳]
久しぶりにめぐり会ったのに、それがあなたかどうかも分からない間に帰ってしまうなど、まるで雲に隠れてしまった月のようではありませんか。
[作者生没年・出典]
生年970年 没年1016年 新古今集 巻十六 雑上 1497 中古三十六歌仙の一人
[人物紹介と歴史的背景]
紫式部は、次の58番の大弐三位の母で、27番の中納言兼輔のひ孫にあたる。ただし本名は不明だ。
幼いころから才気渙発で漢文もすらすら読み覚えたので「男だったら良かったのに」と父親が嘆いたという。この歌は「幼いころの友達と出会い、それがその人と判別できないうちに、月と競争するように、去っていた」とある。
「月」は夫を指しているらしい
しかしこの歌の、ほんの数年前に、紫式部は夫を亡くしている事実が研究でわかってきた。これと重ねあわせると、「わらわ友達」は実は夫だと仮定すると「雲がくれ」の意味が明らかになるという。「かくれる」は「死ぬ」の意味を持つからだ。
この夫は親子ほど年が離れていて、結婚生活も短かったが、歌が夫のことを詠んだものなら、とても幸せなものだったと推測できる。紫式部はその後、一条天皇の中宮になった道長の娘・彰子の教育係として仕える。
平安時代には日本書紀も天照大御神も重要視されていなかった
それはともかく、平安期に日本書紀や天照大御神がどう考えられていたか? がうかがえる文書があるので紹介しておく。
その才女で、天才だった紫式部が残した「源氏物語」の中で、「『日本紀』などは、ただかたそばぞかし=『日本書紀』などは、歴史のほんの一面を表したものにしか過ぎない」と断言している。
また藤原兼家の妻で、百人一首では「右大将 道綱の母」が書いた「蜻蛉日記」の巻末歌集には、長雨で旅立ちが延期するのではと心配した友人が主人公に
我が国の 神の守りや 添へりけむ かわくけありし 天つ空かな と詠った返歌に
今ぞ知る かわくと聞けば 君がため 天照る神の 名にこそありけれ
としているのを見れば「かはくの神=河童の神様=天照る神」と考えているようだ。
さらに、紫式部に憧れ、源氏物語を読むのが大好きな文学少女である菅原孝標の娘が書いた「更科日記」の中では、天照大神を「いずこにおはします神仏か=どこにおられる神仏様でしょうか」ととぼけている。つまり平安王朝の貴族の間=藤原政権の中では、記紀の神々や、神話が全く重要視されていないことになる。現代の保守派がびっくりするだろう。古典の勉強と歴史の勉強は、同時にやった方が良さそうだ。
天智王朝だったことが原因
これは、平安時代が「天智王朝」だったことが原因だ。奈良時代に一時的に「天武天皇系」が皇位を継いだが、794年平安京遷都の桓武天皇で、完全に天智系に戻った。だから百人一首の1番が天智天皇だったのである。この王朝の恩恵をたくさん受け、臣下の身でありながら、皇位継承まで影響を及ぼせる勢力になった藤原氏にとっては「天智天皇様様」だ。大企業の創業社長のことを全く知らない新入社員でも、創業家の法事には呼び寄せられて、雑用をさせられるように、定家卿も、紫式部も、立派な「藤原氏」の一員であることを忘れてはならない。
平安貴族の神話や記紀に対する態度から逆に察するに、天智天皇が滅ぼした蘇我氏や、藤原氏が没落させた他の豪族たちが、古代日本を創世した「記紀」の世界の主役であったことがわかる。平安時代当時の王朝は、200年ぐらい前にできた「新王朝」という目で見れば、わかりやすいかもしれない。