「~したら次に…」という曖昧な命令は厳禁、まずは目の前の敵を粉砕する

だが、問題は中央軍団だ。これは現ベラルーシ国にある、当時はソ連側の要塞や重要都市を陥落させるために派兵された。この地に存在するソ連側の軍隊が、北方軍や南方軍の邪魔をすると困るから、が理由で、これはこれでわからないでもない。

しかし進路上に緑色で示された湿地の平原が広がるために、戦車の移動が困難になる=スピードが遅くなると思われ、重要要塞や都市を陥落させて、「兵力に余裕があればどちらかの軍団に合流・参加する」ということになっていた。

こういう「どっち付かずの部隊」は「働いていない」ので、遊んでいる=「遊軍」という。私はこの時点で、すでに失敗が始まっていたと思っている。事実、あれこれと攻撃目標が、この後変更され、1944年の7月に事実上、壊滅してしまうのだから、最初の狂いは本当に問題だ。

右のイメージのように、ケチケチせずに、ど~んと太い矢印でまとまって最初からモスクワ攻略を目指していれば、仮にロシアの冬が襲ってきても、十分ドイツ軍には勝機があったと思う。

勉強の時も同じ。集中こそ力

特に教育者≒学校の先生(これには経験の浅い塾講師なども含む)は、戦争の話はあまり好きではないので、当然、具体的な戦法のことは知らないことが多い。そして理想家≒現実を知らない人が多い。だから知らずのうちに、平気で「戦力・兵力分散」をやる。具体的には、次の試験には出ないようなことを、貴重な時間を浪費して学習させたり、先走って別の分野を勉強させたりする。または宿題の量を調節しないで、負担を課したりを平気でやってくる。

あるいは英語を勉強するのに、「文法」「読解」「作文」「会話」など、たくさんコースを設けて、とにかくテキストをたくさん渡して勉強させ、結局は「どっち付かず」の結果になる。つまり「戦争のやり方を知らない」からこうなるのだな、と当方は観察している。

こんな指導者に当たった生徒は災難で、独ソ戦にかり出されたドイツ軍兵士や、ミッドウェー海戦に出撃した海兵みたいなもので、「無駄死」は必然だ。

親・保護者は「戦力・兵力分散」をする教師かそうでないか、そんなコースを設置している学校かどうか? を見極める必要があるだろう。悲劇が起きるのを防がなければいけないのだ。

「モスクワ攻略」を成し遂げた後の展望は「親独政権の樹立」だったかも

さて前にも述べたが、スターリンを捕縛・処刑するか、追い出して、モスクワを完全占拠した後は、傀儡政権でもいいし、ロマノフ王朝の生き残りの人(と自称する人でもいい)でもいいから、「親独のロシア正統政権」を押し立てて、各地に散らばるソ連軍団に停戦命令を下すなり、仲の悪そうな地方同士を噛み合わせるなりして、ソ連国内に混乱を起こす手を、なぜドイツ軍は考えなかったのか? 不思議でならない。

スターリンは「大粛清」で恐怖政治を敷いていた。当然不満分子は多い。付け込む隙は、いくらでもあったはずだ。ましてや共産党政権発足で、20年しかたっていない。ロシア民衆には、アメを与えて懐柔して、ゆっくりとウラル山脈西側を統治していけば、何年でも居座れたかもしれない。

敵の中に「味方」を作る

「敵の中に自兵を作る=敵国内に混乱を起こす」のも立派な戦法だ。そうなれば、わざわざ、さらに寒いレニングラードに出かける必要もなかったのに、と考える私は素人なのだろう。素人が偉そうに、と軍関係者やミリオタ関係者は非難するかもしれない。しかし素人が、疑問に思うことを解決できない専門家は専門家とは言えない。

もっとも当時のドイツ軍側に立って考えれば、こんなセコイ考えを持つ作戦家は排除されたのかもしれない。なにしろ「向かう所敵なし」で、外国を攻めれば最長1か月で屈服させてきた「無敵ドイツ軍」だから。

でも「物理的に相手を打ち砕く=戦術で勝つ」という硬直した戦法に偏ってしまっていたことを意味する。これは現在のアメリカに近いものがある。イラクしかり、アフガニスタンしかり、戦闘は終わったが、その後の統治はすべてうまく行かず、投げ出している。現にアフガニスタンでは、今年の空港での映像に、露骨にアメリカの「投げ出し」が見えたのは、記憶に新しいと思う。

勉強でいうなら、とっつきにくい分野でも、どこかわかりやすい部分があるはずだ。まずはそこを味方にして、徐々に「占領地」を広げることが、全範囲の攻略につながる。そういう場所を探し出すことがポイントになる。

まだ続く。