高校生でもあきらめてはいけない

もし高校での古典の授業に catch up できなくなっている人が、「すばやく復習したい!」と考えている場合にも、さきほど紹介した2冊の中学生向けの参考書が、有効な教材であるのは、今までに指導した生徒たちが証明している。

例の「近畿大学と言えばY君」で紹介したY君が、まさにその例だ。 つまり中学校での古典の勉強が少ない≒ほぼないことが、高校での伸びを止めているわけだ。英語と同じで「経験値」がないから伸びない、という場合に当てはまるだろう。あるいは格好良く点数を取りたい、という気持ちが邪魔をしている場合かもしれない。跳び箱と同じで、助走のために、後ろに下がるべきだ。

K君も、昔の私も、今の生徒たちも同じだった

前々の記事で「印象的だった」としたのはどうしてか?
全く日本の歴史も古典も知らない、という点では、学校のスケジュール上仕方のないK君も、歴史が嫌いな上に、授業カリキュラムの関係上、古典に触れたこともないという、数多くいる公立中学の生徒たちも同じだ、ということだった。

今の日本の状況はどうだろう?
このまま行けば「英語、英語」と追っかけて、日本人でなくて、合成英語で表記したら「ジャパリカン」か「アメニーズ」みたいな人たちがたくさん出来上がってしまうのではないだろうか? あのドイツ人講師の言うように「たくさん面白いことが自国に埋まっているのに、なぜそれを追及しないのか」と外国から不思議に思われてしまうだろう。

1961年、43歳で第35代米国大統領になったジョン・F・ケネディが、「日本で最も尊敬する政治家は誰か」と日本人記者に質問された時、ケネディは「上杉鷹山だ」と答えたが、多くの日本人が「それ誰?」となったのは良い例だろう。

資料集を渡して終わり、になっていることが多い

また国語の資料集、便覧などには、必ずと言っていいほど「竹取物語」や百人一首の紹介が掲載してあるが、つっこんだ話題はない。私が高校の時に古典の授業がおもしろくなかったのは、「上辺」だけの話題が多かったからだ。また深い話をしてくれる先生に出会ったこともない。少なくとも記憶はない。

例えばなぜ、百人一首は「天智天皇」から始まるのだろうか?
皇室を称えるのなら初代の「神武天皇」からでも、良かったはずだ。もちろん神武天皇の時代に和歌はないから、それらしい歌を持ってくるしかない。天智天皇の百人一首1番の「秋の田の刈穂の~」だって怪しいものだから、別にいいではないか。

これに対する私なりの答えは57番の紫式部のところで「意外なことだが」で書いておいた。もちろんめちゃくちゃな結論だから、真に受ける必要はない。でもおもしろいじゃないですか。あんな風に考えるのは。リンクは下です。

百人一首 57番 紫式部

わざと古典や国語、歴史がおもしろくないように教えているように思える

あくまで邪推だが、知られるとまずいことがあるからではないか、とも考えてしまう。QEDシリーズなどを読むと「うげー」ということがたくさんあるし、付喪神の本質や百鬼夜行の意味が分かる本や、吉野裕子氏の「陰陽五行思想からみた日本の祭」は示唆に富んでいて、一読の価値がある。「日本に差別はもうない」と言うのは、裏を知らない人の薄い知識だし、皇室の真の存在意味の追求にはならないだろう。「民は頼らしむべし、知らすべからず」がもしかしたら教育界にある「ウラの掟」なのかもしれない。

やはり学習者に大切なのは「切に思うこと」で、「切に思う」ようにさせない意図があるような気がしてならないのだ。これは今の日本人全体に、言えそうな気がする。

しかし風潮は20年前とは大分、変わってきている。お堅いNHKが「不比等のプロジェクト 天孫降臨の夢」という本を出版しているぐらいだ。その本では「聖徳太子はいなかった」というテーマになっている。この「潮目」は正しいので、乗り遅れない方がいいと思う。

まだ続く