中納言兼輔

みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

[現代和訳]
みかの原を湧き出て流れる泉川よ、その人を「いつ見た」と疑問に思うのだが、「いつ見た」のわからないほど、恋しく思うのはなぜだろうか。

[作者生没年・出典]
生年877年で没年933年 新古今集 巻十一 恋一 996 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
本名は藤原兼輔 (ふじわらの かねすけ)。ただしこの歌は本人のものではないのでは?と疑問視されている。

男女が「会う」という意味はかなり深い

また実際には会ってもいない人のことを好きになれるのか、とも思うが、当時は男女が実際に「会う=見る」こと自体が、男女関係を持つ、を意味する重たいもので、「会う」以前に、評判や噂を聞いたりして、それで気になったら垣根の隙間からチラリと見て、実際に存在することを確かめる。現代ではそのまま通報されそうだが、この時代は、まだOKだった。

その後、手紙のやりとりを交わすところから始まめるのでようやっと第1段階クリアである。「お友達から始めましょう」のノリみたいなもので、いきなりアドレスなんか訊いてはいけないのだ。またこの時、漢詩ではなく、女文字であるひらがなで手紙を書かないといけないから、男もひらがなを習うようになった、と言われている。

その上で想像力を駆使して相手のことを推測し、OKが出たら、実際に夜中に忍び込む、という段取りだ。翌朝暗いうちに、男が帰る時のことを「後朝(きぬぎぬ)の別れ」という。そして男がその日のうちに送る歌を「後朝の歌、後朝の文」と言い、これが来ないと女はフラれたことになるので、来るまで不安な時を過ごす。

現代なら、デートが終わってすぐに「今日は楽しかったです。また~」と各種通信機(ずっと昔は手紙、ちょっと昔は電話、今は携帯電話やスマホなど)を使って返信することは、時代が変化しても同じだ。次に2日続けると結婚の成立になる。3日目の夜に、女性は宴を開き、男性を家族に紹介する段取りだ。これを「通い婚」というのだった。

源宗于朝臣

山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

[現代和訳]
山里はいつの季節でも寂しいが、冬はとりわけ寂しく感じられる。訪問する人も途絶え、草も枯れてしまうのだと思うと。

[作者生没年・出典]
生年不明で没年939年 古今集 巻六 冬 315 三十六歌仙の一人

人物紹介と歴史的背景]
本名は「みなもとのむねゆき あそん」と読む。「人の目」が「かれる=離れる」と「草木」が「枯れる」の掛詞になっている。

形式的には、古今和歌集の編者の一人でもある、百人一首29番の凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね)のように技巧を凝らした歌とも取れる。古今和歌集の時代にはこういう「言葉遊び」が好まれた。

源宗之は15番で紹介した光孝天皇の孫にあたる。歌の才能はあったが、あまり出世しなかった自分のことを詠ったものではないか、と言われている。天皇の子孫でも、うだつが上がらない人が多いのは事実だ。今昔物語集の中で、ある天皇の5代目にあたる女性が遊女になった話もある。