分散してはいけないし、分散させることを狙う

10人と5人がケンカをするとして、普通なら2:1だから、このまま10人がまとまって5人に襲い掛かれば、5人側には勝ち目はないだろう。

そこで5人側が、囮≒贄兵とか、うその情報を流して10人を分散させてしまえば、勝機が生まれる。5人はまとまったまま、10人側の一番少ないグループから襲えばなんとかなるし、引き分けに持ち込むことも可能だ。

「戦力・兵力の分散」の逆は「戦力・兵力の集中」で、戦略・戦術の基本だが、最初は忠実に守るのに、勝ち進んで行くにつれて、忘れがちになるか、相手の術中に陥って、結果、痛打を喰らい、最終的な敗北の大原因になることが歴史上多いのは興味深い。

前置きで「ミッドウェー海戦」の紹介

今回、題材にしている独ソ戦よりメジャーで、高校の世界史や日本史の教科書に、必ず掲載されている1942年の「ミッドウェー海戦」がある。これも「戦力分散と戦力集中の差を見せた戦い」の一つだ。この戦いについては、学校の普通の授業中にも、きちんと説明をして「君たちは、こんなことしたらダメだよ」として、「要は結果ですよ」と締めくくって、教訓にして欲しいと思う。

日本側はハワイ真珠湾奇襲の機動部隊を、航空母艦4隻と2隻の2つに分けて、ミッドウェーとアリューシャン列島に派遣したが、これが大失敗だった。

というのは、ミッドウェーには、アメリカの航空母艦は2隻いる、と日本は見込んでいた。しかしアメリカ側は、暗号解読に成功していて、突貫工事で修理を終えた1隻を加え、さらにミッドウェー島自体にも、空母2隻分の飛行機をたくさん移動させた「戦力集中増強策」を採った。

ただしこの時点では、アメリカ海軍は「やられっぱなし」なのに、それでも、自分たちより数が多くて、錬成度も高い強敵に立ち向かった敢闘精神は、素直にすごいと認めなければならない。

当時、日本の航空母艦には飛行機が100機以上積載できたが、アメリカ側は多くて60機前後だったから、日本海軍首脳部は4隻で十分、と考えたこともある。しかしそれでも日本側が、もしミッドウェーに4隻ではなく、6隻の航空母艦をまとめて派兵していれば、6対4の兵力で戦えた。この海戦についても、そのうちに詳しく触れるかもしれない。私の「戦争を観察する趣味」の、発端になった海戦だったからだ。

独ソ戦がどこが「戦力・兵力分散」だったのか

さて独ソ戦だ。
独ソ戦は下の地図に表した北方の赤い点 レニングラード・現在のサンクトペテルブルクを狙う北方軍団、南方の赤い点 カスピ海附近のコーカサス・現在のカフカス山脈を越えたところにある、油田地帯を狙う南方軍団、そしてロシア平原の中央を進撃する中央軍に分けられた。アベノミクスや毛利家の家訓みたいに、「3本の矢」がソ連に向けて放たれたイメージだ。

油田の方はわかるけど、なぜレニングラードか?だが、ここにはソ連の軍港=海軍の基地があって、海軍の弱いドイツが、バルト海での制海権をめぐって苦戦していたからだ。

バルト海は、ドイツの友邦国フィンランドとの交易船が行き来する海域で、戦争経済の資源をフィンランドなど「反ソ姿勢」の国に大きく頼っていたドイツにとっては、レニングラードを陥落させる=バルト海の制海権を握るために、必至とされていた。

「独ソ戦史」によれば北方軍=レニングラード方面は26個師団、南方軍=油田地帯攻略軍には 39個師団、中央軍団は49師団で、3つの軍団で合計300万人以上が、初期に投入された。現在の陸上自衛隊全員で30万人だから、すごい数だ。

まだ続く。