清少納言の父に当たる


契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは

[現代和訳]
かたく約束を交わしましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、波があの末の松山を決して越すことがないように、二人の仲も決して変わることはありますまいと。

[作者生没年・出典]
生年908年 没年990年 後拾遺集 巻十四 恋四770 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
清原氏は日本書紀の編者と言われている「舎人親王(とねりしんのう)」の子孫とされている。だから天智朝系列の平安時代では、冷遇された。清原元輔 (きよはらのもとすけ)は62番で紹介する清少納言の父だ。自身は勅撰和歌集に106首入選している、かなりのプロ歌人で、勅撰和歌集の一つである「後撰集」の撰者でもある。だが後撰集はあまり評判が良くない。

この歌自体は、心変わりをした女性に送る歌を、清原元輔が代筆したものだ。身分の低い歌人は歌を代作することで収入を得ていたのは、35番の紀貫之のところでも紹介した。

有名なのは「末の松山」だが…

「末の松山」とは「絶対に波が超えることができない山」とされていて、宮城県多賀城市八幡にある10mぐらいの小山のことだ。この歌が小倉百人一首に入っていることは、知っている人は知っていたが、そんなことに興味がない人でも2011年3月11日に起きた「東日本大震災」で一気に有名になった。詳しい関連サイトはここ

清和天皇の御世、869年(貞観11年)に東北地方で「千年に一度の規模の地震」である貞観地震が発生し、記録によると一帯を治める政治的本拠地の多賀城は、崩壊し、波に飲まれ、多数が犠牲になった。しかしこの「末の松山」のそばまで大津波が来たが、そこで止まったという。この歌を知っていた住民は東日本大震災の時も「末の松山」まで避難したという。

ちなみに清和天皇の御世である「貞観時代18年間」はやたらと災害や、疫病が多い時代だった。体感できた地震だけでも100回はあったそうだ。「三代実録」と言う公式記録には、彗星は出現するし、鳥海山などの火山は爆発するし、日本海側で地震が起きて、最上川を津波が遡り大被害をもたらしている。これはほとんど「この世の終わり」に近い。人心は荒れはて、都の周辺でも騒乱が相次ぎ、あの羅生門は、芥川龍之介の小説そのままになっていた。

御霊会の始まり

時の政権担当者は、16番の在原行平のところで紹介した藤原良房だ。天変地異は確かに自然現象ではあるが、当時は「政治を行う者に徳がないと、天帝がお怒りになり、天変地異が起きる」という認識があった。それでも政権に居座っていたのだから、並みの神経ではない。しかしさすがにこれはまずい、と思ったのか、863年(貞観5年)に、御霊=怨霊鎮めのための「御霊会(「ごりょうえ」と読む)を都で始めた。そしてこれが今の「祇園祭」の原形だとされている。

御霊会のために必要な人材が「陰陽師」だ。もちろん一番有名な人は安倍晴明だが、御霊会を始めた頃はまだ生まれてもいない。当時の第1人者は滋岡川人(しげおかかわひと)で、その能力をかわれて、御霊会が執り行われたと言っても良い。このあたりは今昔物語集が詳しいので、ぜひご一読をお願いする。

ついでに「梨壺の五人(なしつぼのごにん)」のことも知っておこう。「万葉集」の訓点と「後撰和歌集」の編集をするために天皇の命で置かれた「和歌所の寄人」のことだ。庭には梨の木が植えられていたことからそう呼ばれた。