平兼盛 (たいらのかねもり)


忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

[現代和訳]
人に知られまいと恋しい思いを隠していたけれど、隠し切れずに顔色に出てしまった。何か悩みがあるのではと、人が尋ねるほどまでになってしまった。

[作者生没年・出典]
生年不明 没年990年 拾遺集 巻十一 恋一622 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
960年3月20日に行われた「村上天皇ご臨席の天徳内裏歌合」で作られた歌だ。百人一首の中でも有名で、しかも「名歌」である。系図も見ておく。

「歌合」とは何か?

「歌合」は、貴族が集まって行う「歌合戦」で、天皇ご臨席の「内裏歌合」なら、現在の「紅白歌合戦」レベルのものと考えた方が良い。

多少身分が低くても、歌の出来が良ければ、大勢力の藤原の本流に取り立てられて、出世できることもあるので、歌が上手な人にとっては「大一番」の勝負所だった。この歌は41番で紹介する壬生忠見との勝負で有名だ。

ちなみに「歌合」というものを創設した人は、16番で紹介した中納言行平=在原行平。「ウチで『歌合戦』やらない? お酒とかつまみとか、飲めない人には甘いものなんかも用意するからさ~」のノリで始めたわけだ。

これだけでも行平の人物像が浮かんでくるような気がする。どこにでも、どの世にでも存在する「カラオケやバーベキューなどのパリピで、世話焼きの親父さん」というイメージが。

勝者の決定は曖昧だった

さて「天徳内裏歌合」の判者=主審・左大臣藤原実頼は、生真面目な人で決着をつけかねて、副審・大納言 源高明に任せたが、副審も困ってしまい、最後は村上天皇の御心のままに、とした。天皇が「忍れど」と口に出したため、勝負が決まった。天皇は判断をはっきりお示しになったわけではなく、ただ口ずさんだだけのようで、本当に勝負が決まったのではないが、まさに「鶴の一声」で平兼盛の勝ちになった。

主審・藤原実頼は45番で紹介する謙徳公こと藤原伊尹(これまさ/これだた)の伯父さんにあたる。「大鏡」によると自分の庭に出るのに、冠を被っているのでなぜかと訊かれ、庭の南前に稲荷神社があるので「お稲荷様に対して失礼だから」と答えた実直さで有名だった。また門前に菓子を置き、それを食べる民衆の雑談を聞いて世情を知ったと「古事談」にもある。彼が死んだ時は身分に関係なく大勢が弔問に来たという人で「清慎公」と呼ばれた。こんな人では、際どい勝負の判断は確かに難しそうだ。副審・源高明は皮肉なことに、実頼の甥である藤原氏主流に、後々失脚させられる。かなり因縁の深い者同士が、この歌合に同席していたわけだ。

平兼盛自身は、勅撰和歌集に83首入選しているかなりのプロ歌人だ。この歌の「忍れど」は、実は「信夫」という女性にあてたものだ、という研究もある。なお平兼盛は、59番で紹介する赤染衛門の実の父親だと主張し「親子関係確認の訴え」を起こしたが、敗訴している。

壬生忠見 (みぶのただみ)

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

[現代和訳]
わたしが恋をしているという噂が、もう世間の人たちの間には広まってしまったようだ。人には知られないよう、密かに思いはじめたばかりなのに。

[作者生没年・出典]
生没年不明 拾遺集 巻十一 恋一621 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
壬生忠見は、30番の壬生忠岑の息子だ。「天徳歌合」で紹介した平兼盛に「敗北」したのがショックだったのか、しばらく寝付いてしまった。生霊を見たという人やら、あげく死んでしまったのではないか、という噂も流れたが、ちゃんと復活した。

また後世では「忍れど~」は技巧的すぎる、「恋すてふ~」の方が素直でこちらの方が秀歌だと言われることもある(もちろん同点だという評価もある)。壬生忠見自身は、勅撰和歌集に36首入選している中堅のプロ歌人だし、相手と運が悪かっただけだろう。しかし残念ながら、あまり出世はしなかった。