とにかく読んでみることにした

過去の偉大な作家の真似事で、平凡人である私も原本に触れることにしたのだ。そこで「物語の祖」と呼ばれている「竹取物語」を読んでみることにした。

すると自然に、古典文法も一度やり直してみるかという気にもなった。英語みたいに考えればなんとかなるか、と楽観的に考えたのだ。この動機がポイントだ。そこで卒業生やらなにやらの人脈を通して、今現在、高校で使っている教科書とその解説書も手に入れ、今度は動機がはっきりしている≒動機が不純だから、熱心に読み、設問も積極的に解いた。

同時に「竹取物語」を読み進み、現代和訳をしているうちに、変で不思議なことに気が付いた。

なぜに「竹取り」なのか?

まずこれほど有名な「小説」なのに、なぜ作者が不明なのだろか?
何かまずいことでも書いてあるのだろうか?
そもそも、なぜ『竹取』という題名が付いたのだろうか?

と疑問に思い出したのだ。しかし古典の解説書にはそういうことは全く触れていない。

現代では本のネーミングは大切で、誰が書いたのかも大切だ。そこで売れる・売れないが決まると言ってもよい。しかし昔はどうだったのだろうか? 著作権という概念がなかったから「本を売って、印税で暮らす」という発想はない。事実、楽聖・モーツアルトも、曲は醤油みたいに「切り売り・量り売り、売ったら御終い」だったからこそ、生活のためにたくさん曲を作る必要があった。日本の古典も、筆記模写なんかは当たり前だった。すると採算度外視=利益ではなく、「とにかく書きたかったから書いた」としか言いようがない。

それでもなぜ「竹取」なのか、なぜ作者不明なのか、考えれば考えるほどわからなくなった。

竹は最初に登場するだけだし…

さらに疑問なのは、「竹」は一番最初に出てくるだけで、後は全然出てこない。なのになぜ「竹を取る」題名になっているのだろう?竹を取ったら、良い事でもあるのだろうか?普通なら「かぐや姫物語」とするところを、わざわざ「竹取物語」とした強い理由は何だろうか?

こう考え始めたのが、まさに「運のつき」だった。ただし「尽きた」のではなく、「憑く」のほうの「つき」だ。そこで紀貫之が編集した「古今和歌集」を読んでみることにした。

修羅の道に踏み込んでしまったかも

でここからが「修羅の道」だった。私が古典の世界を再訪問するまでに、色々と変化していたのだ。学校の授業やらはそのままだったがようだが、出版物の世界は様変わりしていた。一言で言えば「デオドラント化」していた。例えば「百人一首は名歌ぞろい」とか、現代語ならこんな感じでしゃべっていた、とかが本のキャッチコピーになっていた。まあ誘いとしては間違いではないし、とっつきやすくするための努力だから否定はしない。しかし私が求めていたのはそんなことではなかった。

中道館シリーズが欲しかった

そこで、絶対に手に入れたかったのが、中道館が出していた「古典新釈シリーズ」だった。しかし今の本屋さんには置いていなかった。しかたがないので、アマゾンを利用することにしたら、あるところにはあった。すっごく安くなっていてホッした。

なぜこのシリーズを欲しいと思ったのだろうか? 話は高校時代に遡る。当時、私は自分が何者なのか、何になろうとしているのか、全くわからない時を過ごしていた。ある時、昼休みにぼんやりしていたら、隣にいた女子が熱心に、この中道館のシリーズを読んでいたのである。同級生と言うだけで、話したことはない女子生徒だったが、あまりに熱心に読んでいるので、なんとなく、思わず「それ面白いの?」と質問してしまったのだ。

その本が「中道館シリーズ」だとわかったのは、自分が探し求めていた今になってである。その時の記憶は「白いカバーに緑と赤、そして黄色の斜線が入っている、B6サイズの本」という曖昧なものでしかなかった。シリーズ名がわからなかったからグーグル先生に「古文 解説書 シリーズ 白いカバー 斜線デザイン 1970年代出版」など、あれこれ検索をかけて、色々なブログを訪問して、ようやっと行き付いたぐらい、今では「レア物」になっていた。なぜそれに固執したのだろうか?

まだ続く。