前権中納言匡房 (さきのごんちゅうなごん まさふさ)

高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ

[現代和訳]
高砂の峰にも桜の花が咲いたようだ。(私はそれを見たいので)その手前にある里山に霞など、立たないようにしてくれないか。

[作者生没年・出典]
生年 1041年 没年1111年 後拾遺集 巻一 春上 120

[人物紹介と歴史的背景]
本名は大江匡房。大宰府の帥だったので「江帥(ごうそつ)」と呼ばれる。1068年に即位した、後三条天皇の下で主に文書係りを務めた。後三条天皇の祖父が、68番で紹介した三条天皇だ。

大江一族は漢学者が多かった

匡房は、漢文に優れた学者で、特に万葉集の研究に携わっていた。彼は歌についての裏話にも精通していて「江談(ごうだん)」という談話集を残している。

例えば、55番で紹介した藤原公任が「歌詠みでは紀貫之がTop No.1です」とある親王に言うと、その親王は「(3番で紹介した)人麻呂の方が上だよ」と言うので、公任の選んだ10首と、親王が選んだ10首を比べてみると、7対3で人麻呂が勝ったという。ちなみにその親王の父親は、40番の平兼盛のところで紹介した「天徳内裏歌合」の主催者 村上天皇だ。息子もやるな~。

現代でも皇族の方々は、流行に関係なく「日本全体の文化」に目を配っている。例えば現在の上皇陛下は沖縄の古来の歌を研究されているが、このような姿勢は、一朝一夕でできあがるものではない。たまたまかもしれないが、この親王の行動と知識が、貴族と皇族とを分けるところではないか。

でないと、いわゆる「三十六歌仙」を生んだ、公任の編集による「三十六人撰」にも、柿本人麻呂などの万葉歌人が入っていることが説明できない。きっと公任はこの後、かなり万葉集を勉強し直したのだろう。彼のような天才だからこそ、努力を怠らないのかもしれない。

源俊頼朝臣 (みなもとのとりよし あそん)

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを

[現代和訳]
私に冷たかった人の心が変わるようにと、初瀬の観音さまにお祈りしたのだが、初瀬の山おろしよ、お前のようにかえって冷たさが厳しくなってしまったぞ、私はそんな風にはお祈りしていないのに。

[作者生没年・出典]
生年 1055年 没年1129年 千載集 巻十二 恋二 707 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
71番で紹介した源経信の息子で、院政後期の歌の第1人者。金葉集の撰者でもある。勅撰和歌集に201首入選している達人。「神仏に祈ったがかなわなかった歌を詠め」で作った歌だから「初瀬」が入っている。初瀬は奈良県桜井市にある初瀬山で、中腹に「長谷寺」があり、そこに十一面観音像があるから。

以下長谷寺 HPからの引用

長谷寺花の御寺というだけでなく、開山徳道上人によって開かれた日本における観音信仰の根本道場でもあります。錫杖を持つ長谷寺の十一面観音菩薩は、地蔵菩薩の功徳を兼ね備えた霊佛であります。昔より『大慈大悲の深きこと、長谷観音に如くはなし』と称せられ、何事も適えて下さる「長谷の福観音」として誠に霊験あらたかであることから、「初瀬詣」という言葉も生まれ、現在に至るまで広く善男善女の信仰をあつめております」…なんだそうだが、それでもダメだったということになる。信心が足りなかったのかもしれない。

俊頼は、保守的な和歌の道を代表する歌人で、新鋭さを追求する次の75番の藤原基俊と対立する立場にあった人だ。その基俊の弟子が、定家の父俊成だから、定家はライバルだろうがなんだろうが、入れたい人は入れる、のモット―で選んだと思われる。

藤原基俊(ふじわらのもととし)

契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

[現代和訳]
あれほどお約束いただいた「自分を信じて待ちなさい」という言葉も空しく、今年の秋も空しく過ぎてしまうようだ。

[作者生没年・出典]
生年 1060年 没年1142年 千載集 巻十六 雑上 1023 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
僧侶をしている息子を、儀式で講演させてほしいと、次の76番で紹介する藤原忠通に頼んでいたが、結局実現できなかった恨み言を言っている歌で、恋とかは関係ない。

かなりの歌の達人で定家の父・俊成の先生

儀式とは毎年10月に奈良 興福寺で行われる維摩会のことで、興福寺は、1番で紹介した天智天皇の右腕 藤原氏の始祖・中臣鎌足と、2番で紹介した持統天皇の右腕 藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。そこで講師をすると「将来が約束された」も同然なのだが、競争が激しかったのか、付け届け=賄賂が不足だったのか、実現できなかった。つまり政治力はあまりなかった人、ということだ。

作者の基俊は、ひとつ前の74番で紹介した源俊頼と肩を並べる歌の達人で、勅撰和歌集には107首入選している。また残念ながら残ってはいないが、自ら「三十六歌仙」を選ぶ作業もしたプロだ。ただし歌人としてのデビューは少し遅かった。それでも83番で紹介する定家の父 俊成の歌の先生でもある。その俊成に基俊は「蝉丸は古今集の時代の歌人だ」と教えたので、定家は父の師の説に従って、百人一首に入れたと言われている。