実際の文の紹介

本当にそんな物騒なことをルソーが書いているのか?と思われる方に、実際の文を紹介しておきます。

岩波文庫「社会契約論」p54から抜き出します。

社会契約は、契約当事者の保存を目的とする。目的を欲するものはまた手段をも欲する。そしてこれらの手段はいくらかの危険、さらには若干の損害と切りはなしえない。他人の犠牲において自分の生命を保存しようとする人は、必要な場合には、また他人のためにその生命を投げ出さねばならない。

さて、市民は、法によって危険に身をさらすことを求められたとき、その危険についてもはや云々することはできない。そして統治者が市民に向って「お前の死ぬことが国家に役立つのだ」というとき、市民は死なねばならぬ。なぜなら、この条件によってのみ、彼は今日まで安全に生きて来たのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈物なのだから

とまあ、こんな文です。

大学生の時に読んでびっくりした

「統治者が市民に向って『お前の死ぬことが国家に役立つのだ』というとき、市民は死なねばならぬ」
どきっとする言葉です。ただし、ここでいう「統治者」とは国民自身のことです。「統治者と被治者の自同性」、つまり国家において統治するものと統治されるものとが同一という関係原理のことで、民主主義を採用する国なら当然のこととされています。もっとも社会契約説をベースとするレベルの民主主義では、まだ統治が「被治者の同意」に基づくと構成されていたのですが、このへんはあまり追及しないことにします。

「社会契約論」は1762年に世に出たのですが、「危険思想」と認定されたから、さすがに発禁処分になっています。実際、当時の「正義」であった「貴族支配」を壊すきっかけになりました。その後復刊されて、日本には明治時代に「民約論」と名付けられて紹介されたことは、高校世界史あるいは日本史の教科書にも書いてあります。

ちなみに日本の有名な作家では、夏目漱石が発禁処分になったこともありました。「ロシアに勝って『一等国』になれたのに、うじうじと男女のことや人生に悩んでいることを題材にして小説を書き、それで糧を得ているとはケシカラン」というのが理由だそうです。

同日に追記 「夏目漱石」ではなく、「谷崎潤一郎」の間違いでした。う~む記憶力が弱くなった…。夏目漱石は、小説の発禁処分を下す権限を持つ、なんとかという局長のところにあらかじめ出向いて、「このままではまずいのでは?」というサジェスチョンを得て、書き換えていることが多々あった、という記憶と取り違えていました。お詫びして訂正いたします。

あ、それで思い出した! 確か、「それから」の主な筋書き内容を、「女が浮気をする」から「男が浮気をする」に変えたことで、免れたのだった。当時は女性が「主体的に」不倫をして、夫が訴えると、姦通罪が成立したからだった。いやこれももしかしたら、記憶違いかもしれない。なんだか話が逸れそうなので、ここで止めておきます。

「法によって危険に身をさらすことを求められた時」に限る

さてポイントは「法によって危険に身をさらすことを求められたとき」です。つまり法律によらないで「死んで来い」というのはさすがにダメとなっています。ニュースでも報じられているように、今のウクライナなら「国民総動員令」がその根拠で、18才から60才までの男性は「国のために働らかないといけないので、国外に脱出することはだめ」になっています。もっとも現在、すでに国外にいる人には適用されないみたいですけど。

で、今の日本はどうなんでしょうか?

「国民総動員令」と聞くと、中学3年生なら「国家総動員法」を連想します。この法律は1938年・昭和13年に第1次近衛内閣によって議会に提出され同年に公布・制定、1945年・昭和20年の敗戦によって同年12月に廃止されました。この令は、超法規的だったという議論はおいておきます。

また、いわゆる「兵隊に取られる」となると徴兵令を連想しますが、これは1871年・明治3年から始まり、1889年・明治22年に法律になり、やはり1945年・昭和20年に廃止されています。

今の日本はどうなんでしょうか?

つまり戦争になった時や、なりそうな時に、一般の国民を戦争に協力させる、あるいは参加させるための有効な法律は、今のところ日本には存在しないのです。もし戦争になったら、逃げるのも、義勇兵になることも、自衛隊に急遽入隊することも、すべて自分で勝手に判断して良いことになる。良いも悪いも、現実にそうなのだからまさに「仕方がない」です。

仮にそういう法律を作ろうとしたら、現行の憲法との兼ね合いが絶対に問題になるでしょう。そうなると憲法の解釈を変えるか、それとも改憲するのか、その前に改憲するのかしないのかという議論から始まることになり、「民主主義を唱えた偉人」ルソーの主張や考えは、現在の日本では、とてもではないがすぐに実現はできない、という結論になります。もしルソーが採点官なら、今の日本は「民主主義国家としては落第生」になってしまうかも。

隠しておきたいのかも

これでは非常に都合が悪いので、授業で「こういう人物がいて、こんな本を出しましたよ~」と紹介はするけれども、その中身までは踏み込まないでおこう、としているんじゃないだろうか?と私みたいなひねくれ者は邪推してしまうわけです。でものんびりとしていられない時期が、やって来ているような気がするのです。

もちろん、ルソーの唱える民主主義は昔のもので、現在の複雑な政治状況や国家状況、国際状況、そして国民の現状にそのまま当てはめることは不可能だ、という人も存在しているでしょう。それも正しいです。しかし根本に変化はないはずです。大豆でないものから作った「豆腐」は、もはや豆腐とは呼べないのと同じではないでしょうか。

読書は面白いものですが、こういう「どっきり」の文に出会うスリルもある、ということです。ロックの「市民政府二論」も、ちょっと滑稽なところがあって面白いです。そのうち紹介したいと思っています。