三条右大臣 (さんじょううだいじん)=藤原定方(ふじわらのさだかた)
名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
[現代和訳]
有名な逢坂山にあるさねかずらは「いっしょに寝る」の意味だそうですが、そのさねかずらを手繰り寄せるように、こっそりとあなたに逢いに行く方法があればよいのに。
[作者生没年・出典]
生年873年で没年932年 後撰集 巻十一 恋三 701
[人物紹介と歴史的背景]
三条右大臣 (さんじょううだいじん)は藤原定方(ふじわらのさだかた)で、044番で紹介する中納言朝忠(藤原朝忠)の父親。邸宅が三条にあったからこう呼ばれた。
「名にしおはば」 の意味も大事
「名にしおはば」とは「名にし負う」と現代では書き、少し古い言葉だが「名にふさわしい、有名な」の意味で使うことが多い。「名にし負う武田の騎馬軍団」とかゲーマーで戦国野郎なら知っているはずだ。
さねかずらは花のではなくツル性の灌木で、茎の中にある粘膜を利用して髪型を整えるのに使う。現代のゼリー状の固める整髪剤みたいなものだ。
貞信公(ていしんこう)は藤原氏は「氏の長者」
小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
[現代和訳]
小倉山の美しい紅葉よ、もしお前に哀れむ心があるなら、急いで散らずに、もう一度の行幸=天皇様がいらっしゃるのをお待ち申してくれないか。
[作者生没年・出典]
生年880年で没年949年 拾遺集 巻十七 雑秋 1128
[人物紹介と歴史的背景]
本名は藤原忠平(ふじわらのただひら)、兄は菅原道真を陥れた藤原時平だ。宮中の紫宸殿に出現した鬼を一喝して退散させたという豪胆な伝説もある。
天皇のご旅行を「御幸」という
「小倉山」は京都市右京区嵯峨にある山。大井川を隔てて嵐山に対する、古くからの紅葉の名所だ。天皇のお出かけを「行幸(みゆき、ぎょうこう)」、上皇や法皇、女院などの場合は「御幸(みゆき、ごこう)」とするが、この歌の「みゆき」は天皇のお出かけを指している。
藤原忠平が小倉山の紅葉風景を詠んだこの歌を送られて、醍醐天皇が、「それなら私が見なければ紅葉が気の毒だ」と言い、本当に出かけた。
「季節もの」を見るための、天皇の急なお出かけだから、食事や荷物の用意、セキュリティーの配置(現代ならSPとか検問)など、上や下への大騒ぎの準備で、周囲の人たちは大変だったと思うが、きっと満足されたのだろう。これがきっかけで「大井川紅葉狩りのみゆき」が慣例になった。
忠平の息子の藤原師輔ともども和歌を通じて紀貫之と親交があり、紀貫之の就職を斡旋したりした、同時代の人間だ。また一時的にだが、将門の乱を起こした平将門を家来にしていたこともある。
忠平は菅原道真を心配していたらしい
忠平は道真のことを心配して手紙を送ったりしていることから、心優しい人の意味で「貞信公」と呼ばれた。ただしいじわるな私は順番が逆ではないか、と疑っている。道真の「怨霊」のおかげ(?)で、兄 時平が早死にした結果、忠平は「氏の長者」つまり藤原氏主流のリーダーとなれた。これ以上「怨霊」に殺されては、政権を握った意味がない。そこで道真の怨霊鎮撫に勤めたはずだ。事実、北野天満宮のHPには「藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され…」とある。
987年では、少し時間が離れているが、それ以前から費用負担や、無心を受けていたからこそ、さらに莫大な出費を引き受けたのだ、と私は考えている。そして運よく生き残った忠平は「もともと道真によくしていたはずだ」という推測の評判がたち、その順番が逆転した、とするのが自然ではないだろうか。
なおこの26番の貞信公こと藤原忠平からいわゆる藤原氏の全盛期が始まり、76番の法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通(ただみち)で、時代が終わるが、定家卿はそれを象徴するつもりで選んだ、と言われている。