菅家(かんけ)とは菅原道真のこと

このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに

[現代和訳]
今度の旅は急いで発ちましたので、捧げる幣(ぬさ)を用意することも出来ませんでした。この手向山の美しい紅葉を幣として捧げますので、神よ、どうかお受け取りください。

[作者生没年・出典]
生年845年で没年903年 古今集 巻九 羈旅(きりょ=旅の歌の意味) 420

この歌は道真が、015番で紹介した光孝天皇の息子・宇多天皇のお供で奈良に行ったときのものだ。「手向山」は京都から奈良に抜ける奈良山の峠のことだ。

[人物紹介と歴史的背景]
菅家とは菅原道真を尊敬した表現のこと。023番の大江千里で紹介した大江氏は「江家」だった。また大江氏と菅原氏は先祖を共にする。菅原道真は歴史の教科書では「遣唐使を廃止して、後の国風文化生成の機を作った人」で有名だが、それ以上の興味がない人には、なじみが薄い。

抜擢されたが危険視されて失脚する悲劇の人

この歌は道真が、015番で紹介した光孝天皇の息子・宇多天皇のお供で奈良に行ったときのものだ。「手向山」は京都から奈良に抜ける奈良山の峠のことだ。

彼は天皇に抜擢されて、次の醍醐天皇の時代には、右大臣まで務めた。しかし自分たちに取って変わろうとしていると警戒した当時の藤原氏のリーダー、藤原時平の巧妙な追い落としに遭い、九州の大宰府に島流し同然の左遷になり、そこで903年に窮死した。

大宰府に向かう直前に詠んだ歌が有名

東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主無しとて 春を忘るな

自宅で詠んだらしく、今はその自宅跡が「菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ)」になっている。またその梅(かその子孫」)もそのままある(らしい)。その梅は「主人」である道真を追って飛んで行ったから「飛梅」と呼ばれている。ほんまかいな、とツッコムのはやめよう。

しかし怨霊になり、神様にもなる

「北野天神縁起絵巻」より。雲の中に赤い雷神がいる。

しかし909年には道真を陥れた、その時平が39才で急死する。923年に21才の皇太子がやはり急病死する。これらすべて「菅帥の霊魂の宿忿なり(かんそちノれいこんノしゅくふんナリ、と読む。道真は大宰府帥であったことと、宿忿とは積もった怒りのこと)」とされ、「菅原道真は怨霊になった」と認定された。

そこで彼の身分を回復し、左遷命令の文書も正式に廃棄したが、今度は急死した皇太子の息子も5才で死ぬ。この子は母が時平の娘だった。

とうとう930年に醍醐天皇ご臨席の宮中の清涼殿に落雷があって、道真を陥れた貴族の何人かが、感電死ないしは焼死するという大事件も起きた。醍醐天皇はショックで寝込み、譲位した数日後に死亡する。936年には時平の相続者だった息子が47才で死ぬ。

落雷の被害を避けるための呪文が「くわばら、くわばら」だ

その後、全国に落雷事故が相次いだ。しかし道真の故郷 桑原というところには落雷はなかったので、落雷除けに「くわばら、くわばら」と唱えるようになった(という)。完全にパニックになった朝廷は、道真を「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」として京都の北野天満宮に祀る。ここから彼は「天神様」と呼ばれている。

ちなみに「天神様」の御利益には「冤罪を晴らす」という項目もあるから、ヌレギヌを着せられそうになったら、お参りすると良いかもしれない。