桓武天皇の孫にあたる人

天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ

[現代和訳]
空吹く風よ、雲の中にあるという天に通じる道を吹いて閉じてくれないか。天に帰っていく乙女たちの姿を、しばらくここに引き留めておきたいから。
[作者生没年・出典]
生年は816年で没年は890年。古今集 巻十七 雑上872

[人物紹介と歴史的背景]
僧正 遍昭は、桓武天皇の孫で元の名前(俗名という)は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)と言い、仁明天皇(にんみょうてんのう)の蔵人(くろうど、くろんど)だった。これは文書を扱う現代の政策秘書にあたる。また天皇の命令である「綸旨(りんじ)」を出すのも主な仕事だ。最終的には蔵人頭にもなり、順調なキャリアを積んでいたが、仕えていた仁明天皇の死後に出家して、「遍昭」と名乗った。

「僧正」だけど出家前の若い時に作った歌

016番で紹介する在原行平、017番の在原業平とは親戚で、021番の素性法師=良岑玄利(はるとし)の父親でもある。お坊さんである遍昭をからかって「遍昭は女に何の用がある」という江戸時代の川柳がある。しかしこの歌は若き蔵人・良岑宗貞として宮中に勤めていた時に、5人の美女が踊る「五節の舞」を見た時の感激で作った歌だ。エロいお坊さんが美人の踊子を見てウフフと作ったものではないので、注意しよう。今の川柳は、この事情をわかっていたのか、それとも知らなかったのか不明だ。

陽成院はかなり変な人

筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

[現代和訳]
筑波山の峯から流れて来るみなの川も、やがては深い淵をつくるように、私の恋もしだいに積もり、今では淵のように深いものとなってしまった。

[作者生没年・出典]
生年は868年で没年は949年。第57代天皇 後撰集 巻十一 恋三 777

[人物紹介と歴史的背景]
陽成天皇は、幼いころから奇矯な振る舞いが多く、15歳で庶子を設けるなど早熟で、成人してからもさらに症状が悪化、宮中で起きた斬殺事件にも関与しているのではないかとも疑われたりした。そのため「物狂帝(ものぐるいのみかど)」とまで呼ばれた。

血筋は良いのだけど

陽成院は、父親が「清和源氏」の祖になった清和天皇で、020番で紹介する元良親王の父親でもある。ただし、元良親王は譲位後に生まれた皇子だ。

精神的に不安定で「ロボット」にもならないから、当時の太政大臣・藤原基経も愛想を尽かし、在位8年ほどで015番で紹介する光孝天皇に譲位している(=させられている、が正しい)。長生きはされたが、何かの精神疾患の持ち主だったのだろうと、現代の研究では推測されている。天皇家は親戚で結婚していることが当時は多く、遺伝的な影響なのか、たとえば第63代の天皇・冷泉天皇も精神的な疾患の持ち主だったと言われている。

この歌は陽成天皇が求婚した女性に届けた歌で、残念ながら陽成天皇の現存する歌はこの1首だけだ。「筑波嶺」とは今の茨城県筑波山地にある標高876mの山のこと。山頂が女体と男体の二峰に分かれ、古代のコンサート会場である「歌垣」と知られていた場所で、つまり男女の出会いの場だ。「筑波嶺」とくれば「恋」とか「男女」に関連する言葉、と覚えておこう。

「~院」は天皇を辞めた人に付ける

ちなみに「~院」というのは「天皇だった人が、譲位して上皇や法皇になった時の尊称」と覚えておく。しかし「治天の君」は実際の統治権限を持っている人を示す。よって「~天皇」が在位されていても、「~院」や「~法皇」などが「治天の君」である場合も、十分に歴史的には存在する。

つまり「治天の君」は一人しかいないわけで、まさに「天に二日(にじつ)なし、地上に二帝なし〔意味=天に太陽は二つないように、地上には皇帝は一人だけだ〕」と覚えておこう。