道長に退位させられた天皇
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
[現代和訳]
心にもなく、つらい世の中(=ここでは宮中のこと)を生きながらえたなら、さぞかし夜の月が恋しく思い出されることであろう。
[作者生没年・出典]
生年976年 没年1017年 後拾遺集 巻十五 雑一 861
[人物紹介と歴史的背景]
三条天皇は、冷泉天皇と藤原兼家の娘=藤原道長の同母姉との間にできた皇子だ。ただし実母であるこの女性は982年に急死しているのが、三条天皇には痛かった。
実の兄である花山天皇(かざんてんのう)が兼家の謀略で出家・退位され、兼家の孫である一条天皇が7才で即位した時、皇太子=東宮に三条天皇はなった(立太子するという)。この時三条天皇は11才だったから「さかさまだ」と言われ、このあたりからケチがついている。
眼病を患っていたことも原因
そして祖父 兼家が死去し、その息子 道隆(中の関白家の長者)や、道長が台頭してくると、立場が微妙になってくる。一条天皇が道長を大臣格の地位に任命する時には、天皇の実母で道長の姉である人が強く推薦した。
よって一条天皇の御世では、道長も姉に遠慮があるから、そんなに専横を振るうことはできなかったし、一条天皇自身も強い態度を道長に取れた。
でも当時皇太子だった三条天皇には、祖父の兼家も、その娘である実母も、もうこの世にいないから後ろ盾がない。それでも道長は自分の娘を三条天皇の妃には入れていた。
手は万全に打ってあるわけだが、すでに三条天皇には別の大臣の娘との間に、男子が生まれているので、年齢を考えると、道長が強引な策を取るのにためらいはなかった。また不運なことに三条天皇には眼の持病があった。
一条天皇が1011年に三条天皇に譲位し、3日後に死去する。それから4年ほどの間に、三条天皇の眼病は進み、退位を迫る道長に負けて、1015年に三条天皇は、自分の息子を次の天皇の皇太子にすることを条件に、先帝 一条天皇の息子である、後一条天皇に譲位した。
しかし孫の後三条天皇が荘園整理令を出す
三条「前」天皇は翌1016年に死去したので、遠慮のなくなった道長は、三条天皇の実の息子を皇太子辞退に追い込み、故 一条天皇の第2皇子を皇太子にした。「元」皇太子になった三条天皇の息子は、「小一条院」と呼ばれ、天皇に準じる扱いを受けることになった。
この「小一条院」の孫が66番で紹介した前大僧正行尊だ。こういう背景を考えてこの歌を読むと、気の毒な天皇様だな、と思う。実際この天皇は勅撰和歌集に合計8首ぐらいしか入っていないから「歌人」とは言えない。人の記憶に残っている原因は、この人の境遇からくる同情だろう。
その後、藤原氏主流が皇室に、たくさん女子を送り込んだのにもかかわらず、皇統を継ぐ男児が後冷泉天皇にも、後朱雀天皇にも生まれなかったから、道長に無理やり退位させられた三条天皇の孫に当たる男性が、1068年に後三条天皇として即位する(ただし小一条院の子孫ではない)。
そして後三条天皇は、藤原氏主流の摂関家に遠慮することなく、「延久の荘園整理令」を出し、王権回復の改革に乗り出す。それが「院政」への手本になり、同時に藤原氏が勢力を失っていくきっかけになるのは、歴史の皮肉かもしれない。