藤原敏行朝臣 (ふじわらのとしゆき あそん)

住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ

[現代和訳]
住の江の岸に打ち寄せる波のように、繰り返しあなたに会いたい、どうして夜の夢の中でさえ、あなたは人目をはばかって会ってはくれないのだろう。

[作者生没年・出典]
生年は不明、没年は907年。古今集 巻十二 恋二 559 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
「歌合」と呼ばれる、天皇やお后様、大貴族などの御前で詠む歌会の中で作られたものだ

良い歌が多いのになぜこの歌か

官位は低かったが、彼の詩の才能は素晴らしく、彼の代表作品はこれだ。

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる

どこかで目にしたことがあるはずの歌だ。この歌も良いできだが、なぜ「秋来ぬと~」を選ばなかったのかわからないところだ。

この時代では、「AさんがBさんを好き」なら、寝ているBさんの夢にAさんが出現する、と考えられていた。そしてBさんは「ああAさんは、私の事を好きなのか」と気が付くシステムになっている。現代とは逆だから注意しよう。 もっとも「夢の中までストーカーするのか」と、考えることも可能ではある。

伊勢 (いせ)

難波潟 短かき蘆の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

[現代和訳]
難波潟の入り江に茂っている芦の、短い節と節の間のような短い時間でさえお会いしたいのに、それも叶わず、この世を過せとおっしゃるのでしょうか。


[作者生没年・出典

生年は877年で没年は947年。新古今集 巻十一 恋一 1049 三六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
本名は不明。父親が伊勢守(いせのかみ)だったから、その官名で呼ばれたようだ。

現代の倫理観念では…というところもあるが

さらには宇田天皇の第4皇子敦慶親王にも愛されて、後に三十六歌仙の一人になる、娘の中務(なさつかさ)を生んでいる。中務とは名前ではなく、職業名だ。この時代の女性は、子供が天皇や親王、内親王になると名前が残るが、そうでない場合はあまりはっきりとは残らないので、ちょっと残念。

また「父とその息子にも愛される」というのは、現代の倫理観念ではちょっと疑問だが、ないわけではないし、いわゆる「美魔女」で、同時に才色兼備だったからかな?と思われる。

それはともかく、娘・中務も伊勢本人も三十六歌仙だから、親子で称賛を受けているわけだ。しかし晩年は不幸だったという噂が残っている。061番の伊勢大輔とは別人なので、混同しないようにしたい。

元良親王 (もとよししんのう)

わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ

[現代和訳]
このように思い、寂しく暮らしていると、今はもう身を捨てたのと同じこと。いっそのこと、あの難波のみおつくしのように、この身を捨ててしまっても、お会いしたい。

[作者生没年・出典]
生年は890年で没年は943年。後撰集 巻十三 恋五 961

[人物紹介と歴史的背景]
元良親王は13番で紹介した陽成天皇の息子だ。しかし退位した後に生まれたので、皇太子にはなれなかった。

不倫の相手に当てた歌だった

平安時代になると、天皇の奥様は、1番上が「皇后」、第2番目は「中宮」、3番目は「女御」となっている。でもなぜか中宮が位的には一番「上」になる。この歌の中で、元良親王は不倫の相手である天皇の女御に「もう一度会いたい」と言ったわけだ。ある意味すごい人だ。でも彼は「一夜めぐりの君」とまで言われた「色好みの人」でもある。本気がどこまで続いたのか、少し疑わしい。

元良親王は13番で紹介した陽成天皇の息子だから血筋かもしれない。しかし歌の道においては相当な上位者であり、同時に「元良親王御集」には女性との贈答歌がたくさん載せられているから、そちら方面では満足なさっていたのではないだろうか?