曽禰好忠(そねのよしただ)

由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな

[現代和訳]
由良の海峡を渡る船人が、かいをなくして、行く先も決まらぬままに波間に漂っているように、わたしたちの恋の行方も、どこへ漂っていくのか思い迷っているものだ。

[作者生没年・出典]
生没年不明 新古今集 巻十一 恋一1071 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
今の京都である丹後の地で下級役人を務めていたので「曽丹(そたん)」と呼ばれた。好意のあるニックネームではなく侮蔑した表現で生涯不遇だった。

しかし根性のある人で、ある上流貴族の歌会に招かれていないのに押しかけ「歌で勝負しよう」と言ったが、貴族の子弟に暴行を受けて、放りだされたというエピソードがあるぐらいだ。

生きている時は評価されなかったが死後、勅撰和歌集に89首収録されたので、実力は認められた。「由良のと」は由良海峡のことだが、それが和歌山県の由良か、京都府の由良かで争いがある。

恵慶法師 (えぎょうほうし)

八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり

[現代和訳]
雑草の生い茂った宿は荒れて寂しく、人は訪ねてはこないが、ここにも秋だけは訪れるようだ。

[作者生没年・出典]
生没年不明 拾遺集 巻三 秋 140 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
「八重むぐらしげれる宿」は、14番で紹介した河原左大臣 源融の屋敷のことで、この歌のころには廃墟化していた。

庭の一部がお寺になっていたから、そこに風流人が多数集まった時に作った歌だ、と詞書にある。つまり「廃墟萌」は昔からいたわけだ。

源重之(みなもとのしげゆき)

風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな

[現代和訳]
風がとても強いので、岩に打ちつける波が、自分ばかりが砕け散ってしまうように、あなたが振り向いてくれないので、とてもつらく、わたしの心は波のように砕け散るばかりです。

[作者生没年・出典]
生年不明 没年1000年ぐらい 詞花集 巻七 恋上 210 三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
45番の謙徳公こと藤原伊尹で紹介した、精神異常の認められた冷泉天皇だが、普通の時は普通の人で、その冷泉天皇が皇太子=東宮の時代に、100首の歌を源重之が奉ったうちの1首。彼のこの行動から「百首歌」の風習が始まったという。また作歌の練習で100首を作ることも定着した。

彼は40番で紹介した平兼盛の友人であり、51番で紹介する藤原実方と共に東北地方に赴任、実方の死後はそのまま陸奥守に任じられたようだ。彼自身がこの地方の出身で、母の里もあったからだ。勅撰和歌集に66首収録されている実力派の名手だ。また妹や娘たちが美人揃いだったという。