後徳大寺左大臣 (ごとくじのさだいじん)

ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる

[現代和訳]
ほととぎすの鳴き声が聞こえたので、その方に目をやってみたが、(その姿はもう見えず) 空には有明の月が残っているばかりであった。

[作者生没年・出典]
生年 1192年 没年1191年 千載集 巻三 夏 161 中古三十六歌仙の一人

[人物紹介と歴史的背景]
本名は藤原実定。母親が定家の祖父 俊忠の娘なので、俊成にとっては甥にあたり、定家にとっては従兄弟にあたる。

院政末期から平氏政権、源氏の鎌倉幕府成立の「三つの動乱の時代」、「明日も知れない」月日の間を、相当神経を使ってうまく立ち回り、京都の朝廷側からも、源頼朝にも信頼される人であった。ただの実直者とは少し毛色が違うのだろう。

世渡りは上手だった

ただしさすがに平氏政権の時は一番の「どん底」で、そこで不貞腐れのではなく、逃避の方法としては最高の分野でもあるから、力一杯、和歌に打ち込んだのが後で効いてきた。まさに「禍福は糾える縄の如し」と言える。ただし、鎌倉政権になって政治的に地位が浮上してからは「歌の道の精進を怠っている」と批判された。

屋根に鳥が来ないように縄を張ったことで、86番で紹介する西行法師からは「風流がわからない人」と言われた。でも、見方を変えれば「鳥害」に悩む現代の、「カラス対策」の先鞭をつけた人でもある。

道因法師(どういんほうし)

思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり

[現代和訳]
つれない人のことを思い、これほど悩み苦しんでいても、命だけはどうにかあるものの、この辛さに耐えかねるのは (次から次へと流れる) 涙であることだ。

[作者生没年・出典]
生年 1090年 没年1181年 千載集 巻十三 恋三 817

[人物紹介と歴史的背景]
本名は藤原敦頼。「能因法師」と間違えないようにすること。能因法師もかなりの数寄者であったが、まだ普通の人だった。

しかしこの道因法師こと、藤原敦頼はかなりの変人で、かつ歌に関しては執着心が強い「偏向型数奇者」として知られている。

知り合いにはいて欲しくない人物

まずどうしようもないぐらいのケチん坊で、役人時代には下の者からは給料の未払いが過ぎて嫌われ、あげくに暴行を受けたり、お金も出さずに自分の歌を詠わせようとし、歌合で負けると審判=判者に対して、モンスタークレーマーになるという悪癖の人であり、同時代の人からは「ボケ老人」扱いされた。こういう人と、同僚や知り合いになったら災難である。