ファリア司祭の死

それから獄中ながらも、2人の間には平和な日が過ぎていく。「人智の中に隠れている不思議な鉱脈を掘るためには不幸というものが必要なのだ」の言葉通り、エドモン・ダンテスの中にあった物事を吸収する才能は開花し、ファリア司祭の「授業」を毎日受けた結果、彼は教養豊かな青年になっていく。元々船乗りだったから、理科系人間でも、頭の柔軟性があったのだろう。

しかし無情にも、ファリア司祭に死が訪れる。2度目の持病の発作の後、残されるエドモン・ダンテスのことを案じながら彼は死ぬ。エドモン・ダンテスは、これからどうやって生きて行こうかと考えている時、一か八かの賭けに出る、恐ろしい方法を考え出す。それはファリア司祭の死体と自分が入れ替わることだった。

当時たいていの刑務所的な建物の背後には、獄中死した者の墓がある。今で言うところの無縁墓だ。典獄(牢の番人のこと)に埋められた後、なんとか土中から脱出し、さらに島を抜け出せばいい、とエドモン・ダンテスは考えたのである。

しかし神は彼に試練と幸運を与える。首尾よくファリア司祭の遺体と入れ替り、死体袋の中に入り込んだはいいが、なんと典獄たちは土に埋めるのではなく、足に重りを付けて、海に袋を放り込んだのである。ある意味、効率の良い方法ではあるが、放り込まれた方は堪ったものではない。

人間的か否かという問いが浮かんだ

ちょっとここで、脱線して「最高刑は死刑がいいか、それとも終身刑がいいか」という意見を考えてみたい。最高刑で死刑があるか、それとも終身刑にするかは、その民族の歴史的な考えが反映するから、そのどちらを選択するにしても、国民的な合意が必要だ。

そしてどちらでも「人間的」であることが必要なのは、近代国家を前提にした場合は、言うまでもない。つまり「どうせ死ぬのだから」「どうせどこにも出ていけないのだから」ということで、衣服も交換しないし、食事も手抜き、宗教の時間も許さない、面会もだめなどは許されないわけだ。そして死刑執行とか、終身刑の人が死亡したら、礼儀を施し、死体は清めて棺に入れる、までやらないといけない。これが「人として扱う」の具体的な意味だ。同じことが無期刑や有期刑の囚人にも当てはまる。

「モンテ・クリスト伯」のこのシーンは中々ひどいのだが、昔だからこんなものかな?ぐらいの疑問で、高校生の時は、あまりピンとこなかった。しかし今は、我が国の最高刑の執行方法は、十分人間的なだな、と考えるきっかけになった。

我々も毎週出すごみを「人間」とは思っていないから、念仏なんか上げずに、ポイっとゴミ捨て場に捨ててくる。同じように、囚人を人間として扱っていないから、死体を袋に詰めてポイと海に捨てることができるのである。

こう考えると、最高刑が死刑か終身刑か?という議論は、「野蛮か否か」という基準より、「人間的かどうか」という基準に沿って進むような気がする。そしてもし将来日本で、死刑の他に、終身刑が並列された場合、判決を下す前には、遺族の意向と、刑を受ける側からの両方の意見を聞くようにしていくのが一番良い方法になるだろう。

そして「死刑」については、この小説の中で、アルベールとエドモン・ダンテス扮する伯爵との出会いでも大きな鍵になる。

話は元に戻る。
持っていたナイフでエドモン・ダンテスはなんとか足の重りのロープを切り放し、海面に顔を出すことができた。しかし放り込まれるときに、豪胆な彼も声を出してしまったらしく、崖の上を見ると、典獄たちが下の海面をたいまつで照らして探しているようだ。ダンテスは折からの嵐もものともせず、抜き手を切って泳ぎ、イフ城砦から少し離れたところにある岩礁にたどり着き、折よく通りかかった密輸船に助けられた。

そして復讐劇は始まったのである。

まだ続く。