全部が急に変わるのではないだろうが
来年度から公立中学校の部活動指導を、民間に委託することが原則になるらしい。あくまで今のところ「原則」だから、全国に波及・普及するのには3~5年ほど、定着するのには10年かかるだろうな、と予想している。しかし「あっ」という間に定着することも十分考えられる。
この動きについては例の「中学の部活指導は違法です」のブログを紹介したころから、「こうなるだろう」と予想はしていた。
このブログが始まったのが2013年、今から10年近く前になる。最初に接触したのは2015年だったと記憶している。その時に「風が吹けば桶屋が儲かる」ではなく、「ブラジルでの蝶のはばたきがテキサスに竜巻を引き起こすか」と思ったことを覚えている。
ちなみにこの2つの表現は表す意味が微妙に違う。「あることによって、意外なところに影響を与える」が「風が吹けば」で、「些細な出来事が後の大きな出来事のきっかけになるかもしれない」が「ブラジルでの蝶の」が表す意味らしい。
時期が良かった
もしこのブログが20年ほど前に立ち上がったとしたら、たぶん賛同を得ることはできなかったかもしれない。原因は色々あるが、当時は部活動自体が学校内では結構盛んだったこと=部活動が輝いていたこと、人口減少がまだ目に見える形ではなかったこと、日本の教育方針が世界に通用すると思われたこと(ただし今でも十分通用すると私は思っている。そもそも「日本の教育は間違っている」と始めるところからがおかしい)、「耐えることは美徳」という風潮が間違っていたけど厳然と存在していたこと、教員の数がまだまだ足りていたこと、などなどがあげられる。
しかし心機到来、SNSが普及し、誰でも掌の上で色々なネット上のものが見れる時代になったことと、部活動の現在のあり方に疑問を持つ人が多くなったことと、教員の待遇の悪さから発生する授業レベルの低下などが顕著になったことなどから、世間が反応し、ようやっと議員が動き、ビッグウエーブになったと思われる。BUTCHさんの如く「乗るしかない、このビッグウエーブに」という感じだ。
もちろん反対意見もある
これに対し、反対意見や危惧する意見ももちろんある。民主主義社会だから色々意見があるのは当然で、言論弾圧はしてはならない。
以下が、恐らく代表的な意見だろう。
国が進める「部活動改革」を専門家は危惧 生徒にも影響「学校から活気なくなる」
ちなみに日本の部活動を今まで牽引してきたが、最近その勢いに陰りの見える野球部に対して、ちょっと新興勢力でもあるサッカー界の意見はかなり参考になると思うのだが、どうだろうか?
「世界基準」で目指す共通のゴール 高校サッカーの名将も驚く野球界との“違い”
私の意見は「好きな人がやれば?」で終わり
さて部活動に対する私の意見はシンプルで「好きな人が好きにやればいいし、やりたくない人はやらなければいい。この『人』には生徒も教師も含む」だ。そして「勝ちたい人は勝つことを目指す部活に入ればいいし、体を動かす程度で満足する人は、そういう部活やサークルを用意する、家に帰ってゲームをしたりテレビを見たい人は、家に帰れば良い」とも言える。
部活動が学校の先生の授業研究時間や、彼らのプライベートの時間を剥奪・圧迫していることは明白なので、これは無理矢理でも引き剥がさなければならない。この緊急性から「学校から活気がなくなる」という意見は却下でも良いと思う。現に数多くの公立小学校には、公立中学レベルの部活動は存在しないが、十分活気がある。だから、なくなればなくなったで、別の楽しみを探すのが子供だから心配はないと思う。
猫も杓子も部活に入れ、どこの馬の骨かもわからない者でも部活の顧問を勤めろ、ということが異常なのである。少し差別的な表現で申し訳ない。部活でがんばりたい猫がいる反面、図書館で静かに本を読んでいたい杓子もいるだろうし、授業研究に専念したい馬の骨もいるはずだ。それを認めるのが、現在の主流風潮である「多様性を重視する」ことなのではないだろか? ついでに理屈を捏ねれば、「『多様性を認めるのは嫌だ』という意見も『認めて』、初めて『多様性を認める』ことが完結する」とも言える。
今までが変だったことを認めなければならない
学校教師個人の「熱意」「厚意」が存在することを前提にして、「前例踏襲」を振りかざし、同時にお金を払わない慣行が継続している。もちろん「教師は労働者ではないから労働基準法の保護は受けない」と切り捨てる司法判断もおかしい。ここは司法積極主義に転じて、「労働基準法にいう労働者ではないが、教師の行動や勤務は、国の基礎を作る崇高必須なものであり、教育界独自が仕事時間とその時価基準を定めることが、今や要求されている」、と要請するべきだった。この点における司法権の怠慢の罪は重い。
結果「やりがい搾取」と呼ばれても仕方のない事態にまで放置した結果、教員志望者激減を招いた。今や多くの企業が「従業員の幸福なくして、企業の発展はない」という方向に舵を切っているというのに、だ。
あるいは「運動部優位=運動部指導担当の教師優位」の歪んだ伝統を作り、真面目に授業を行おうとした教師の地位を低下させてきた、教育界上層部とそれに阿った中間層の見識のなさが原因だ。
あまりにも世界基準や先進の考えとずれている
この際「荒治療」を施す方がいいだろうな、と愚考する次第だ。教育の充実・復活があって国力充実・復活がある。もちろん気の長い話だが、それでも10年あれば、ある程度の成果は出せる。クリントン政権では、大統領自らエアフォースワンで全米を飛び回り、教育への資金投資を約束し、人材を育て、そこで伸びた人たちが「情報ハイウエー構想」を実現させたのだ。まさに Make America Great Again だった。掛け声だけで、分断を招いただけの前大統領とは全く違う。
そして我が国でも、同じことが言える。銃撃されて死亡した元首相は10年近くも国の頂点に立ちながら、一体何をやっていたのだろうか? 行き詰るとスローガンだけを立ち上げてきたように見える。ここが私が全く評価できない大きな原因の一つだ。