人は成長するから考えも変わる

最初はいわゆる「ノンポリ=政治的信条なし」の若者であったとしても、成長していく過程で過激思想に染まっていくこともあるし、むしろその方が多かった。よくある例が、厳格な父親に反発する動機から始まって、平等を推進しすぎる社会主義思想からより過激な共産主義思想へ走り、家庭内不和を起こしてしまう、だ。

インテリの家庭によく起きることであり、家庭がインテリ集団だからこそ起きた、とも言える。手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」の中で、共産主義に走り、憲兵隊の情報を仲間に流していた自分の息子を、自宅で憲兵隊の隊長が射殺するシーンはそれを象徴しているだろう。

内申書は正確には「調査書」というが何を調査したのだろうか

そのような事態をなるべき避けるために、単純に日頃の行動やら、成績やらを調べるために始まったのが「調査書」だったのだろうが、昭和初期あたりになると、思想信条やら政治的興味の方向を探る、あるいは所属する家庭がどのようなものであるかを調べるために変質していったのではないか?と私は邪推している。

で、戦争に負けて新憲法の世の中になり、ようやっと憲法に「思想良心の自由」が明記され、基本的人権が尊重されるようになり、「調査書」はある意味用済みになった。しかし正式に廃止されたわけではなく、「冬眠、休眠中」だった。これが息を吹き返すのが、1960年代~1970年代だった。この時はまだ「思想信条」を調査するためのものだった。ただしあからさまではなかったと思われる。変質したのが、成績を評価する道具として使われ出した、1980年代からではないかと私は疑っている。

人を評価することほど難しいものはない

これが会社とか修理工場なら、目に見える結果が付いて回るし、利益という分かりやすい成果もある。しかし教育となると話は別だ。教育の効果や成果が本当に出て来るのは、それこそ学校を卒業して、何十年後ということもあるからだ。ましてや「教育の利益」に至っては、概念すら不明だ。

次にさて、調査書=内申書が試験結果に加味されるまでは、受験の日の出来不出来で進路が決まったが、それではあまりに不合理ではないか、努力も加算するべきだという意見が大きくなってきた。これは刑法理論での「結果無価値・行為無価値」の考えにもつながる。

日頃怠けているとか、大して成果を上げていないのに、本番にはやたら強い人もいれば、日頃は真面目で成果もあげているのだが、いざ本番となると全然だめな人もいる。熱心にやってきたのに、たった1日の結果だけで運命を決するのはひどい、と感じるのも当然だから、日頃の学習成果もある程度評価に入れよう、となった。

あまり好きではないが、意味がないわけではないので

実は私自身はこの考え方はあまり好きではない。故野村監督は「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とおっしゃられたが、勝負事は力が拮抗している時は、弱点が多いとか大きい方がまず絶対に負ける。あの分野は出ないだろう、この分野は自分は得意でないから捨てる、という「好き嫌いの激しい行動」を取っていると、まず試験ではうまくいかない。

特に試験という異常な時間帯は「日頃できることができなくなったり、できないことが急にできたりする」だから、こうなってはできる限り日頃からちゃんとやっておくしかないし、合格した学校が自分に向いた学校と考えたほうが精神衛生にも良いと思っているから、1日だけの1発勝負でも良くないか?と考えている。

しかし世の中は日頃の行動を判定する「行為無価値論」が優勢になってきた。それはそれで悪くはないのだが、どのような場合でも「行き過ぎ」が問題になる。

まだ続く。夏休み講習中の上に、別の作業も入って来たので、増々時間が取れなくてスミマセン。