近代とともに始まったと考えている

1863年に明治維新が成り、世界に窓が開かれ、それ以来の日本には、ありとあらゆる世界中の思想・宗教が集まり、それらの「実験場」になってしまったような観があった。研究熱心な日本人の特徴が良い方にも悪い方にも発揮されたことが原因でもある。

ちなみに「明治維新」はただ単に「御一新」と呼ぶのが正しい、「明治維新」という呼び名は、昭和になったころから始まったのだ、それは後に、二.二六事件を起こす青年将校やら、その理論的根拠を唱えた人たちが、自分たちの行動を「昭和維新」と自称し、それと区別するためにわざわざ「明治維新」としたから、と主張する説もある。

昔の人は真面目だった

まあそれはともかく、戦前の日本人は戦後の我々とは違って兎に角「真面目」だった。どうやれば欧米諸国に追いつけるか、どうやれば日本は「より良くなるか」と真面目に考え、色々な思想を研究し、実践しようとした。これはいろんな健康法が溢れて、あれこれ試している人と同じようなもので、極端な方面に走る恐れがある。肉食が良いと聞けば、肉ばかり食べるとか、野菜が良いとなると野菜しか食べないとか、現代でもよくある話だ。

同時に産業の発展も進み、貧富の差が激しくなってきたのが明治中期から大正、そしてそれが最盛期になったのが昭和初期だった。富裕層は養育している子弟に、より上級の教育を受けさせて、海外留学も含めたいわゆる「立身出世」の道を歩ませようと躍起になった。そしてあまりお金がない家庭の男子は陸士・海兵を目指すことになる。女子は何とか自立の道を探そうとして「バスガール」や「電話交換手」などが花形になったのは、教科書にも掲載されている通り。ニュースになった、というのは画期的だったから、の裏返しだ。

都合の悪いことも起きて来る

しかし大衆が勉強して啓蒙されていくと、為政者には目障りな思想も乱立する。明治以降の日本はどう見ても「軍部主導」「軍国主義」であり、それを停滞させる恐れのある思想は「危険思想」として取り締まりの対象になった。極端な話「男女平等」も危険思想の部類に入った。後に冤罪と判明したが、幸徳秋水の大逆事件なども起きた。

国防を担う陸士・海兵出身のエリート軍人たちも、結婚する時には、どこの家庭の女性か?を詳しく厳格に調査されることが常になった。これについては史料が残っている。こうなると面倒だから、上官の知り合いの娘とか、上官の娘そのものとかと結婚することも増え、気が付けば上級軍人の社会は血縁集団へと変化していく。

上級の学校は「調査書」を導入し出した

そしてここは推測なのだが、普通の教育をほどこす普通の学校も、上級クラスになると「危険思想」の持ち主=入学希望者は、最初から入学させない方針を採るようになったのではないだろうか?賢く頭が鋭い人は、世の矛盾も良く見える。名馬が悍馬になる傾向があるからだ。悪い方に走った例は、あのオウム事件だろう。

そのための道具が1920年代に全国的に導入された「調査書」だったのではないか?と私は考えている。ただし今のところ証拠=史料は、私自身は見つけていない。専門家でもないし、あまり時間もないからだ。また「人を評価する」という非常にセンシティブなことであるから、性質上、そうそう表に出ることはないだろう。だからそれでなくても隠れた史料を探すのは難しい上に、もっと難しいと思う。そこで取り敢えず、この前提に立って考えてみた。

まだ続く。夏休み講習中なので、あまり時間が取れなくてスミマセン。