ようやっとだが
時々、ブログ内で「内申点制度は廃止したらどうか」と主張しているが、6月29日の読売新聞に広島県で「内申点制度を見直す」という動きが具体化されているという記事があった。
やっとかと思い、あれから色々考えている。
私が内申点制度に反対、あるいは評価に内申点を重視することに反対なのは2つ理由がある。
1つは評価の基準がどうしても担当者の主観が入ってしまう、ということ。
2つ目は、尖った人材を育てるのには、全く役に立たないから、ということ。
記事には「学校生活を委縮させない」とあった。意地悪く追求すれば、つまり今まで委縮させていましたスミマセン、と告白しているのに等しい。語るに落ちたな、とはこのことだ。
歴史を振り返ってみる
ちょっと内申点制度の歴史や導入理由などを簡単に振り返ってみたい。しかしこれはネットなどには掲載されていない情報だし、かなり私の独断と主観、悪く言えば偏見も入っていることはお断りしておく。あまり真剣に読まないように。
もう今では覚えている人も少ないだろうが、1960年~1970年代に「新左翼主義=全共闘活動」という運動があった。これらは主に大学で、大学生たちが「かぶれた」思想だ。東大の講堂に立て籠ったり、教授をつるし上げたり、そして次第に過激なものに変化していく。例えば革命用にと、銃砲店を襲って銃や弾丸を強奪したり、練習と称してバス停で爆弾を破裂させたりした。
どう見てもこれは単純に犯罪だ。で、当たり前だが、最初は「若い者は元気でいい」とか言って「理解者」になっていた人々も、次第に賛同者が減ってきた。
若いことはそれだけで可能性を秘めていることは真実
しかしそれはプラスもマイナスもある。いい例が1960年代後半の中国共産党の「紅衛兵」だ。これは文化大革命を起こし、半ば失脚中だった毛沢東が権力を取り戻そうとして、その先兵となった若者たちのことだ。ずる賢い毛沢東に良いように煽てられ、紅衛兵たちは「造反有理」とか「革命無罪」などの四文字熟語を合言葉に、年が行かない故の判断の未熟さと深い考えなしで、文化人たちをつるし上げ、暴力で屈服させることに快感を得てしまった。しかし文化大革命が終わった時、彼らは用無しになり、歴史から消えて=消されてしまった。
そして話は日本に戻る。新左翼主義者=アマチュア・テロリストたちは、後に決定的で有名な「あさま山荘事件」とか「山岳ベース『総括』事件」などを起すが、その前から新左翼主義者たちは「後継者」を求めていた。だが、もはや同年齢の人が通う大学や社会には、彼らの味方や賛同者はいない。だから自分たちより純粋で年少の高校生にプロパガンダを始めた。高校生で現状に不満を持っている人は当時結構いた。大学受験が次第に過熱し始め、「受験戦争」とまで呼ばれる時代の只中にいたからだ。
中学生にまで思想闘争が及び始めた
そこで彼らを勧誘し、賛同してくれた高校生には学校でビラを配ってくれ、と頼んだ。高校生たちは次に知り合いの中学生を勧誘して、という流れができつつあった。1960年代~1970年代の中学生は「マセている」人や、乱暴なことに憧れる人が結構いたから「革命」とか「変革」に賛同する人は多かった。
ここで危機感を持ったのが当時の教育界だった。この危機を乗り越える、あるいは回避する方法はないものか、と見渡すと、上級の学校に入るために競争が激化してきた1920年代に制定されていた、内申点制度=調査書というものがあった。かなり古い制度ではあるが、法律や制度というのは一旦できてしまうと、正式に廃止しない限り、息を吹き返す。
最近の例でいうと、アメリカがウクライナに武器供与を決めたレンド・リース法だ。あれは第2次世界大戦時に、ナチスドイツと戦っていたソビエト・ロシアを援助するために成立したものだったが、今回はロシアと戦うため、になったのは皮肉と言えば皮肉だろう。
まだ続く。ちょっと長くなりそうなので、気長に行きます。